伏見−山科追分−三条大橋−伏見

2006.7.15 

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 京都に寄らずに江戸に向かうには、観月橋、六地蔵、醍醐経由のルートと伏見街道を藤森まで行き、そこから勧修寺を経て行くルートがあったそうである。今回は後者を辿ってみることとなった。
 阪急、京阪を乗り継いで伏見桃山駅から歩き始める。古い家並みの残る伏見街道である。

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 国道を渡ると、撞木町廓入り口の石柱がある。遊廓があったところで、町割りがT字形になっているので、鉦を敲く撞木になぞらえて、町名になったという。大石内蔵助が敵を欺くためここでも遊んだそうだ。
 暑いのでもう1本目の発泡酒でのどを潤している。

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 東に道を曲がると、美しい墨染桜が咲くことで知られ「すみぞめ」の地名の由来となった墨染寺があった。

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 京都教育大の方に曲がり、藤森神社があった。日本書紀によれば、今から約1800年前に、神功皇后が凱旋したときに山城の国深草の里藤森にいくさ旗≠樹て兵具を納め塚を作り神として祀ったとあり、これをもって神社の発祥としているそうである。

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 仁明天皇陵の石柱があった。仁明天皇は嵯峨天皇の第2皇子として生まれ、多くの書を読み、書を良くし、弓をよく射、音楽にも優れ医学に関心が深かったが、贅沢を好み財を浪費したといわれる。

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 右手に大岩神社の参道があった。大岩・小岩が奉られているそうだが「男女二人の神がそれぞれが重い病気にかかった際に、互いの献身的な看病によって病を治したことから、土地の者がその徳をたたえて神社を造り、『大岩』を男の神、『小岩』を女の神としてまつったという」とのこと。

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 暑い中をひたすら歩いて勧修寺の前に出た。道標が残っている。

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 勧修寺は真言宗山階派大本山、醍醐天皇の勅願寺で900年に天皇の生母藤原胤子追善のため創建したそうで、庭園が公開されているようです。

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 外環状線の広い道を過ぎ少し行くと奈良街道の標識があった。六地蔵経由の道との合流点である。
 すぐ先で2本目の発泡酒を仕入れて歩く。

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 名神高速を越えると右手に岩屋神社の鳥居があった。本殿背後の山中奥之院にある巨大な陰岩と陽岩をご神体としているそうだ。大岩神社もそうだが古代の磐座信仰の姿を現代に伝えているのであろう。

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 一号線の手前に道標があった。一号線を二回横切り、緩やかに登っていく。

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 登り切ったところで旧東海道と出会った。見覚えのある道標があった。Y氏は初めてであるが私は懐かしく感慨に耽った。
 これで、大坂道の旅は終わりであるが、時間もあるので旧東海道を再び京都に上り、伏見街道で伏見まで戻ることとした。

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 街道の雰囲気は旧東海道の方が残っているのかもしれない。髭茶屋付近の様子です。

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 新しい道を歩道橋で越えてすぐ、三井寺への道の道標があった。

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右手に徳林庵があった。地蔵尊は平安時代小野篁公の作として伝えられる、身の丈約3mの霊像だそうな。

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 お堂の後ろに六地蔵があった。8月22日・23日は「六地蔵めぐり」という京850年の伝統行事があり、参拝客で賑わうそうだ。

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 右手に諸羽神社の鳥居があった。人康親王ゆかりの神社としても有名だそうで、境内には親王が座って琵琶を弾いたといわれる琵琶石が今も残るそうだ。
 3本目の発泡酒を仕入れて歩く。

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 左手に道標があった。道標には,「右ハ三条通」「左ハ五条橋・ひがしにし六条大佛・今ぐまきよ水道」などと彫られ、宝永四年建立とのこと。

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 JRを渡って左に入り、登っていくと亀の水不動尊がある。木食上人が元文三年、峠道の改修工事と共に木食寺梅香庵を営み、道路管理と休憩所を設けた所だそうだ。

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 すぐ先に「右明見道」「右かさんいなり道」と記した2本の道標がある。「明見道」の道標は,大塚の妙見寺への道案内に建てられたらしい。

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 国道に出て歩く。昔は路面電車が走っていたが、今は地下になっているそうだ。
 右手に日向大神宮の鳥居があった。第23代顕宗天皇の御代に筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移して創建されたそうだ。

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 京都らしい風情の三条通となり平安神宮も見える。

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 雨が突然降ってきた。古川町商店街のアーケードがあったので雨宿りがてらに入ってみる。商店街の反対側まで行って食事どころでちょうど昼飯にする。食べ終わったら雨がやんでいた。二人で冷やし鰊そばと中ビン3本であった。

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 やがて三条大橋のたもとにでる。高山彦九郎の銅像があった。群馬県太田市の生まれで勤皇の志士であったとのこと。

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 東海道のゴールの三条大橋である。祇園祭で人通りが多い。
 伏見に向かうことにするが、五条までは大和大路(縄手通)を行く。

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 京都らしく着物屋さんなどがある。

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 道の雰囲気も京都である。

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 左に雰囲気の残る新橋通があった。

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 四条を過ぎ、祇園らしくかんざし屋さんがあった。

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 えびす神社があった。起源は約800年前土御門天皇の建仁2年に栄西禅師が建仁寺建立にあたり、その鎮守として建てたそうだ。

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 五条で大和大路と別れて西に二本ずれ、伏見街道に入る。こんな雰囲気の道である。

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 家の奥にもお地蔵さんがまつられている。

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 左手に豊国神社がある。秀吉を祀る豊国神社は、豊臣氏滅亡後、家康に取り壊されてしまいましたが、現在の建物は明治13年に再建されたものだそうです。

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 JRを越える。車窓から見慣れた風景がある。悪趣味な京都タワーと・・・

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 右手に寶樹寺があった。境内には常盤御前が3人の子の命乞いに六波羅の平清盛の元へ向かう途中、降りしきる雪を避けたといわれる雪除けの松跡の石碑があり、常盤御前の念持仏も安置されているそうだ。

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 すぐ左手に瀧尾神社がある。天正14年豊臣秀吉の方広寺大仏殿建立に伴い、 当地に移ってきたそうだ。

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 第三橋の下をには東福寺の通天橋の下を流れる第三橋川が流れ、旧街道沿いに北から第一橋〜第四橋まで欄干が残っているそうだ。

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 和泉式部がこっそり稲荷に詣で、田中明神附近で時雨にあい困っているとき、田を刈っていた一人の童が“あを”(雨具)をかしてくれました。帰りには晴れていたので、その“あを”を返しました。その翌日、童が式部のところへ艶文を持ってきました。開くと、
 時雨する 稲荷の山のもみぢ葉は
 青かりしより 思い初めてき
とあり、式部は哀れと思い、その童を奥へよび入れた、という話が残っています。

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 伏見人形の店があった。伏見人形は稲荷山の土で造った日本最古の土人形で、全国にある土人形の原型といわれ、深草人形、稲荷人形とも呼ばれ、稲荷大社門前で江戸時代の始め頃からつくられました。一説に創始者は鵤幸右衛門(いかるがこうえもん)とされ、また、伏見城築城に参加した深草瓦師が余技につくったともいわれているようです。

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 左手に伏見稲荷大社の鳥居がでてきた。和銅四年秦氏による創建といわれ、「山城国風土記」によれば秦伊侶具が裕福のあまり,餅を的に矢を射たところ,餅は白鳥になって飛び去り,とまった山の峰に稲が生え,神として奉られ,イネナリ(伊祢奈利)生いきからイナリの社名になったという。そして五穀豊穣・商売繁盛の神で,全国に約4万もあるといわれる稲荷社の総本社でもあるそうだ。

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 今度はビールを仕入れて歩いていると、JRを越えるところに摂取院があった。平安時代末期の貴重な地蔵菩薩像(座像で半丈六像・腹帯地蔵)。前の灯明台に天保15年の文字があるそうで、地蔵盆の日にしか見れないそうです。

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 宝塔寺への道標があった。山号を深草山と称する宝塔寺は平安時代に藤原基経が創建した極楽寺にまで歴史は遡るそうです。
 ここから少しの藤森で、朝歩いたところに出て、発泡酒をまた仕入れて墨染から京阪で帰り、Y氏宅で宴会となったが、暑さ疲れで最後はうとうとしてしまった。

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