殺生石・遊行柳

奥の細道本文

是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、短冊得させよと乞。やさしき事を望侍るものかなと、

野を横に馬牽むけよほとゝぎす

殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。

又、清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此所の郡守戸部某の此柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。

田一枚植て立去る柳かな

随行日記

一 十六日 天氣能。〇翁舘ヨリ余瀬ヘ被立越。則同道ニテ余瀬ヲ立。及昼図書彈蔵ヨリ馬人ニ而被送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。此間二里半余。高久ニ至ル。雨降リ出ニ依、滞ル。此間壱里半余。宿角左衛門、図書ヨリ状被添。
一 十七日 角左衛門方ニ猶宿。雨降。野間ハ太田原ヨリ三里之内鍋かけヨリ五六丁西。
一 十八日 卯尅、地震ス。辰ノ上尅雨止。午ノ尅、高久角左衛門宿ヲ立。暫有テ快晴ス。馬壱疋、松子村迄送ル。此間壱リ。松子ヨリ湯本ヘ三リ。未ノ下尅、湯本五左衛門方ヘ着。
一 一九日 快晴。予鉢ニ出ル。朝飯後、図書家來角左衛門ヲ黒羽ヘ戻ス。午ノ上尅、温泉ヘ参詣。神主越中出合、寶物ヲ拝。與一扇ノ的躬残ノカブラ壱本・征矢十本・蟇目ノカブラ壱本・檜扇子壱本、金ノ繪也、正一位ノ宣旨・縁起等拝ム。夫ヨリ殺生石ヲ見ル。宿五左衛門案内。以上湯敷六ヶ所。上ハ出ル事不定、次ハ冷、ソノ次ハ温冷兼、御橋ノ下也。ソノ次ハ不出。ソノ次温湯アツシ。ソノ次、湯也ノ由、所ノ云也。温泉大明神ノ相殿ニ八幡宮ヲ移シ奉テ雨神一所方ニ拝レサセ玉フヲ、

   湯をむすぶ誓も同じ石清水  翁
     殺生石
   石の香や夏草赤く露あつし

      正一位ノ神位被加ノ事、貞享四年黒羽ノ舘主信濃守増榮被寄進之由。

一 廿日 朝霧降ル。辰中尅晴。下尅湯本ヲ立。ウルシ塚迄三リ余。半途ニ小や村有。ウルシ塚ヨリ芦野ヘ二リ余。湯本ヨリ總テ山道ニテ能不知シテ難通。
 一 芦野ヨリ白坂ヘ三リ八丁。芦野町ハヅレ、木戸ノ外、茶ヤ松本市兵衛前ヨリ左ノ方ヘ切レ(十町程過テ左ノ方ニ鏡山有。)、八幡ノ大門通リミゆ。左ノ方ニ遊柳有、其西ノ四五丁之内愛岩有。其社ノ東ノ方、畑岸ニ玄ノ松トテ有。
  玄仍ノ庵跡ナルノ由。其邊ニ三ツ葉芦沼有。見渡ス内也。八幡ハ所之ウブスナ也。(市兵衛案内也。すグニ奥州ノ方町ハヅレ橋ノキハヘ出ル。)
 一 芦野ヨリ一里半余過テヨリ居村有。是ヨリハタ村ヘ行バ、町ハヅレヨリ右ヘ切ル也。
 一 關明神、關東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間廿間計有。両方ノ門前ニ茶や有。小坂也。これヨリ白坂ヘ十町程有。古關を尋て白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ籏宿ヘ行。
  廿日之晩泊ル。暮前ヨリ小雨降ル。(籏ノ宿ハヅレニ庄司モドシト云テ、畑ノ中櫻木有。判官ヲ送リテ、是ヨリモドリシ酒盛ノ跡也。土中古土器有。寄妙ニ拝。)

奥の細道ルート案内

マーカーリスト

説明

16日(新暦3日)晴、後雨 高久 角左衛門

 長く逗留した黒羽を立ち、翠桃宅に寄ってから、野間、鍋掛を通って高久へ。
 黒磯市誌に芭蕉の通過道が描かれています。この道では野間の東外れで奥州街道を横断することになっているので、もう少し西で奥州街道に出たのではないかと思い、西野間で奥州街道に出る道を歩きました。
 野間から先、鍋掛の八坂神社にある句碑につられて、鍋掛、堀越を通って歩きましたが、随行日記にある壱里半余という距離からすれば、黒磯市誌のルートのほうがよいことになります。

17日(新暦4日)雨 同

18日(新暦5日)早朝地震有、午後快 晴 那須湯本 五左衛門

 松子をとおって、湯本まで。

19日(新暦6日)快晴 同

 温泉神社、殺生石を見物。

20日(新暦7日)朝霧、日中晴、夕小雨 旗宿

 随行日記によると、漆塚を通って芦野の町外れに出たようです。漆塚は国道の漆塚交差点ではなく、漆塚(南)の交差点の近くの温泉神社がある集落になります。
 漆塚まで、りんどう湖のそばを通る道は、明治43年の地図では、つながりがよくないので、北条を通る道としました。北条から戸能を通ったとする書物もありますが、戸能と通ると小島を通って黒田原に出るのが自然で、漆塚を通らなくなるので採用しませんでした。
 漆塚から、私は黒田原の駅の近くを通って、法師畑、中川,西坂と歩きましたが、漆畑から法師畑までもうすこし西の上川、下川を通って歩いたとするHPもあり、そちらもルートマップに載せておきましたが、川を渡ってから法師畑までの昔の道は失われているようです。また、黒田原から塩阿久津、大平を通ったとする書物もありましたが、明治の地図に大平から中川への道が描かれていないのと、県道沿いでは、芦野の外れには出ないので、こちらも採用しませんでした。
 天保の下野国の国絵図を見ると、湯本村から漆塚までの道はありませんが、漆塚から塩阿久津のそばを通って芦野まで道が書かれています。県道28号線に沿った道が江戸時代からあったようです。随行日記では、芦野町のはずれの木戸のそとの松本市兵衛の茶屋のところで左に曲がって1kmちょっとで左に鏡山があり、左に遊柳があったとのことなので、西坂を下って奥州街道にはいって、木戸の手前から街道から外れて左にいったようです。芭蕉は、漆塚から国絵図にも書かれている道を行き、県立那須高校の手前から、今は那須高校の敷地のところが失われている法師畑、西坂を通る道を行ったと私は思います。
 奥州街道と分かれて、二ツ穴から旗宿まで、金堀を経由したのか、和平を経由したのかも悩むところす。随行日記には、20日のところに庄司戻しのことも書かれているので、金堀経由の可能性が高いのではと思いはじめましたが、こちらも両方にルートを作成しています。

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