白川の関

奥の細道本文

心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定まりぬ。いかで都へと便求しも斷也。中にもこの関ハ三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に殘し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。

卯の花をかざしに關の睛着かな 曾良

随行日記

一 廿一日 霧雨降、辰上尅止。宿ヲ出ル。町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉嶋ヲ一所ニ祝奉宮有。古ノ關ノ明神故ニ二所ノ關ノ名有ノ由。宿ノ主申ニ依テ参詣。ソレヨリ戻リテ關山ヘ参詣。
  行棊((ママ))菩薩ノ開棊。聖武天皇ノ御願寺、正観音ノ由。成就山満願寺ト云。
   籏ノ宿ヨリ峯迄一里半、麓ヨリ峯迄十八丁。山門有。本堂有。奥ニ弘法大師行碁並堂有。山門ト本堂ノ間、別當ノ寺有。眞言宗也。本堂参詣ノ比、小雨降ル。暫時止。コレヨリ白河ヘ壱里半余。中町左五衛門を尋。大野半治ヘ案内シテ通ル。黒羽ヘ之小袖。羽織・状、左五左衛門方ニ預置。置銭託壱〆貳百七十文。矢吹ヘ申ノ上尅ニ着、宿カル。白河ヨリ四里。今日昼過ヨリ快晴。宿次道程ノ帳有リ。
〇白河ノ古關ノ跡、籏ノ宿ノ一リ里程下野ノ方、追分ト云所ニ關ノ明神有由。相樂乍憚ノ傳也。是ヨリ丸ノ分同ジ。
〇忘ず山ハ今ハ新地山ト云。但馬村ト云所ヨリ半道程東ノ方ヘ行。阿武隈河ノハタ。
〇二方ノ山、今ハ二子塚村ト云。右ノ所ヨリアブクマ河ヲ渡リテ行。二所共ニ關山ヨリ白河ノ方、昔道也。二方ノ山、古歌有由。
 みちのくの阿武隈河ノわたり江に人(妹トモ)忘れずの山は有けり
〇うたゝねの森、白河ノ近所、鹿嶋ノ社ノ近所。(今ハ木一二本有。)
 (八雲二有由)かしま成うたゝねの森橋たえていなをふせどりも通ハざりけり
〇宗祇もどし橋、白河ノ町ノ右(石山ヨリ入口)、かしまへ行道、ゑた町有。
 其きわニ成 程かすか成橋也。むかし、結城殿數代、白河を知玉フ時、一家衆寄合、かしまニて連歌 有時、難句有之。いづれも三日付ル事不成。宗祇、旅行ノ宿ニテ被聞之て、其所ヘ被趣 時、四十斗ノ女出向、宗祇に「いか成事ニテ、いづ方ヘ」と問。右の由尓々、女「それは先(サキ)に付侍りし」と答前句てうせぬ。
      月日の下に獨りこそすめ
  (付句)かきおくる文のをくにハ名をとめてト申ければ、宗祇かんじられてもどられけりト云傳。

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説明

21日(新暦8日)霧雨、小雨、午後快晴 矢吹

 白河の関跡から、満願寺のある関山を越えて宗祇戻しをとおり白河へ。白河からは奥州街道(陸羽街道)を行く。
 二方ノ山があるという白河郡中島村二子塚には、丘はあるが山らしいところがありません。福島県地誌に、「人なつかし山」関平村にあり一名木内山と呼ぶとあり、阿武隈川をはさんで、忘ず山の向かいに人なつかし山、木内山があります。この二つの山が曾良日記の二方ノ山ではないかというHPがありました。二方ノ山という歌枕は調べても見つかりません。人なつかし山と忘ず山という二方の山の歌枕があるという話を聞き、二方の山という歌枕があると思い違いを誰かがしたのかなと私は思います。二方の山という山は白河の近くにないので、曾良から二方の山のことを聞かれた地元の人が、二子塚のことではないかと伝えたのではないでしょうか。
 関山に登ってみて、芭蕉が関山に登ったのは、忘ず山や人なつかし山を眺めるためではないかとふと思いました。

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