大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地也。曾良も前の夜此寺に泊て、
終宵秋風聞やうらの山
と残す。一夜の隔、千里に同じ。吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、明ぼのゝ空近う読経声すむまゝに、鐘板鳴て食堂に入。けふは越前の国へと心早卒にして、堂下に下るを若き僧ども紙硯をかゝえ、階のもとまで追来る。折節庭中の柳散れば、
庭掃て出るや寺に散柳
とりあへぬさまして草鞋ながら書捨つ。
越前の境、吉崎の入江を舟に棹して汐越の松を尋ぬ。
終宵嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松 西行
此一首にて数景尽たり。もし一辧を加るものは、無用の指を立るがごとし。
6日(新暦19日) 小松
7日(新暦20日) 大聖寺 全昌寺
小松を立って、大聖寺の城外、全昌寺に泊まる。
8日(新暦21日) 丸岡
芭蕉と曾良は、別れた後に、どの道を歩くかも相談していただろうから、金津までは、曾良の後を追い、芭蕉も、大聖寺から橘まで北国街道を歩き、その先から吉崎に行き、汐越の松を見た後、浜坂の手前から北潟浦に向かったと思い、そのように歩いてみることにしました。
吉崎までは問題なく歩けましたが、浜坂から福良池までの旧道は、途中の100メートルぐらいは道が完全な藪になっており、GPS頼りに何とか抜けられましたが、歩行困難でした。ルートマップでは、ゴルフ場から北潟浦にまっすぐ向かう道にしました。
「汐越の松」はゴルフ場の中だそうで、フロントに前もって頼んでおかなくては見られないらしいというので、前もってお願いしておいたら、わざわざカートで案内していただけました。ありがたいことです。
金津までの道筋は定かでないですが、曾良の後を追って、北潟から舟で渡って、金津に向かった可能性が高いと思います。迅速地図をみると、湖岸からの道があるのが、小牧、赤尾、蓮ヶ浦と、湖岸には地名がないですが嫁オドシで北国街道に合流する道がある4箇所ですが、小牧では遠回りになるので、それ以外の箇所に渡ったと思われます。蔵崎の渡しというのがあって、蓮ヶ浦に渡っていたらしいのと、芭蕉は蓮ヶ浦に渡ったとしているページもあったので、蓮ヶ浦ルートの可能性も高いと思われますが、金津方面に行くには距離が短くなる嫁オドシに出る道を、ルートにしました。
金津からは、『福井県史』通史編3を参考にして、北陸街道ではなくまっすぐ丸岡城下に向かったルートとしました。天竜寺のある松岡を丸岡と本文で間違えているのは丸岡を通って、丸岡の印象が残っていたためかとも思われます。