山中

奥の細道本文

温泉に浴す。其功有明に次と云。

 山中や菊はたおらぬ湯の匂

あるじとする物は久米之助とていまだ小童也。かれが父誹諧を好み、洛の貞室若輩のむかし爰に来りし比、風雅に辱しめられて、洛に帰て貞徳の門人となつて世にしらる。功名の後、此一村判詞の料を請ずと云。今更むかし語とはなりぬ。 曾良は腹を病て、伊勢の国長嶋と云所にゆかりあれば、先立て行に、

 行行てたふれ伏とも萩の原   曾良

と書置たり。行ものゝ悲しみ残ものゝうらみ隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又

 今日よりや書付消さん笠の露

随行日記

一 廿八日 快晴。(夕方、藥師堂其外町邊ヲ見ル。)夜ニ入、雨降ル。

一 廿九日(道明淵、予、不往。) 快晴。

一 晦日 快晴。(道明が淵。)

一 八月朔日 快晴。黑谷橋ヘ行。

一 二日 快晴。

○三日 雨折ゝ降。及暮、晴。山中故、月不得見。夜中、降ル。

一 四日 朝、雨止。巳ノ刻、又降而止。夜ニ入、降ル。

一 五日 朝曇。晝時分、翁・北枝、那谷ヘ趣。明日、於小枩ニ、生駒萬子為出會也。則請ジテ歸テ、艮刻、立。大正侍ニ趣。全昌寺ヘ申刻着、宿。夜中、雨降ル。

奥の細道ルート案内

マーカーリスト

説明

28日(新暦11日)快晴、夜雨 同 同

 夕方、薬師堂(医王寺)などを見て回る。

29日(新暦12日)快晴 同 同

 道明が淵に遊ぶ。

30日(新暦13日)快晴 同 同

 道明が淵に遊ぶ。

8月1日(新暦14日)快晴 同 同

 黒谷橋(山中東町1丁目の橋で、橋を渡った右下に芭蕉堂がある)へ行く。

2日(新暦15日)快晴 同 同

3日(新暦16日)時々雨、夕方晴 同 同

4日(新暦17日)時々雨 同 同

5日(新暦18日)朝曇 小松

 途中で那谷寺に寄ってから、芭蕉は小松で万子に逢い、小松天満宮の宮司能順を訪ねた。ルート案内は、芭蕉が山中温泉に来るときに歩いたと思われるルートとしているが、山代温泉経由か黒谷峠経由かはっきりしない。曾良日記に8月1日に黒谷橋に行ったとあるのは、来るときには黒谷橋を見ていないから、わざわざ見に行ったとも思えます。私は、芭蕉が山中温泉に来るときは、山代温泉経由で、那谷寺経由で小松に戻るときには黒谷峠を越えていったのではないかと思っています。
 黒谷峠越えの道は、2012年の情報では、四十九院町側が荒れているそうで地図にもなく廃道となっているようで、また、旧四十九院トンネルは通行止めとなっているそうです。
 那谷寺を通るルートは那谷寺の項に掲載しています。

 曾良は腹痛の治療に、長嶋の大智院に行くため大聖寺へ向かった。
 ここから先は曾良随行日記を参照できないと最初は考えていたのですが、曾良は後から来る芭蕉のために、いろいろ手配をしていたようで、曾良の歩いた道は、芭蕉の歩いた道を知るための参考になると思われます。ただ、芭蕉が歩いた日程は、本文にある日付が参考になるだけで、このあとのページの日付は正確ではありません。
 また、金沢から同行している北枝が、さらに天龍寺まで同行し、等哉が福井から敦賀まで同行し、路通が敦賀から大垣まで同行したようで、芭蕉が一人で旅をしたのは、ほんの少しだったようです。

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