那谷

奥の細道本文

山中の温泉に行ほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて那谷と名付給ふとや。那智谷組の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに古松植ならべて、萱ぶきの小堂岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。

 石山の石より白し秋の風

随行日記

一 廿六日 朝止テ巳ノ刻ヨリ風雨甚シ。今日ハ歡生ヘ亭(ママ)ヘ被招。申ノ刻ヨリ晴。夜ニ入テ、俳、五十句。終而歸ル。庚申也。

一 廿七日 快晴。所ノ諏訪宮祭ノ由聞テ詣。巳ノ上刻、立。斧ト・志格等來テ留トイヘドモ、立。伊豆畫甚持賞ス。八幡ヘノ奉納ノ句有。眞盛が句也。予・北枝隨之。

一 同晩 山中ニ申ノ下尅、着。泉屋久米之助方ニ宿ス。山ノ方、南ノ方ヨリ北ヘ夕立通ル。

奥の細道ルート案内

マーカーリスト

説明

26日(新暦9日)午前中風雨強、午後 晴 同 近江屋または藤井伊豆

27日(新暦10日)快晴、夕立有 山中 泉屋久米之助

 諏訪神社(菟橋神社)の祭礼で参詣、小松を立って、山中温泉へ。

 本文では那谷寺に寄ったことになっているが、随行日記によると、真っすぐ山中温泉に来て、帰りに那谷寺に寄ったようです。
 ルート案内は、那谷寺に寄っての道にしました。芭蕉が山中温泉に来るときは動橋経由と思われ、次の山中の項にルートを掲載しています。
 那谷道について、歴史の道調査報告書の本文を紹介をされているページがあり、これと迅速地図や1832年の「三州測量図籍」江沼郡、能美郡を参考に、道を再検討しました。
 歴史の道では、粟津道から分岐して北陸線の西側を通るように説明されています。迅速地図では、矢崎村の手前で線路を越えてから東側を通っているようになっていますが、三州測量図籍にある粟津道との分岐がよくわからないし、三州測量図籍には、分岐してから申七度半の方向に三丁半で未二度の方向に行くようになっているのに合うような道は迅速地図にはないようです。線路の西側を通るというほうが信頼できそうで、上のマップでは線路沿いの道を通るようにしていますが、もう少し線路より離れて通っていたかもしれません。
 また、県道新保・矢田野線を横断した先で、那谷道は中断し、歴史の道では、「いのべ理容店」までの道に接続していると説明されているのですが、迅速地図では「深田建設設計事務所」のところが下粟津町からくる道と合流する袖野村のところになり、その先の矢田野町四七の三叉路ところがカルミ村で、高塚から戸津への道に突き当たるところのようです。いのべ理容店への道は、三州測量図籍に描かれている水路のところのように思えます。
 カルミ村から那谷道は、東に向きをかえて2町先で右に曲がっていっていたようですが、迅速地図では、水路と思われる線が、矢田野町四七のところから二ツ梨まで書かれているだけで、三州測量図籍にある道がありません。歴史の道調査報告書によると、稲手集落は藩政末期に消滅し現在は小字名を残すのみだそうで、稲手集落を経由する二ツ梨までの道は、そのころに失われているようです。湿地で、大雨ですぐ浸水したりしたからかと想像しています。
 黒谷峠を越えて那谷寺に行ったとの説もあるようです。今の黒谷峠越えの道は、2012年の情報では、四十九院町側が荒れているそうで地図にもなく廃道となっているようで、また、旧四十九院トンネルは通行止めとなっているそうです。山代温泉経由の道と両方を載せました。

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