奥の細道本文

最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければとわりなき一巻残しぬ。このたびの風流爰に至れり。

最上川はみちのくより出て、山形を水上とす。こてんはやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをやいな船といふならし。白糸の瀧は青葉の隙隙に落て仙人堂岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。

 五月雨をあつめて早し最上川

随行日記

一 廿九日 (夜ニ入小雨ス)發・一巡終テ、翁両人誘テ黒瀧ヘ被参詣。予所勞故止。未尅被帰。道々俳有。夕飯、川水ニ持賞。夜ニ入帰。

〇一 晦日 朝曇、辰刻晴。(哥仙終。)翁其辺ヘ被遊、帰、物ども被書。

〇六月朔 大石田を立。(辰刻)一榮・川水、彌陀堂迄送ル。馬貳匹、舟形迄送ル。ニリ(一リ半)舟形。大石田ヨリ出手形ヲ取、ナキ澤ニ納通ル。新庄ヨリ出ル時ハ新庄ニテ取リテ、舟形ニテ納通。両所共に入ニハ不構。(ニリ八丁)新庄、風流ニ宿ス。

二日 昼過ヨリ九郎兵衛ヘ被招。彼是、哥仙一巻有。盛信、息、塘夕(澁谷仁兵衛、柳風共)、孤松(加藤四良兵衛)、如流(今藤彦兵衛)、木端(小村善衛門)、風流(渋谷甚兵ヘ)。

〇三日 (天氣吉)新庄ヲ立、(一リ半)元合海、次良兵へ方へ甚兵へ方ヨリ状添ル。大石田平右衛門方ヨリも状遣ス。船、才覚シテノスル。(一リ半)古口ヘ舟ツクル。(合海ヨリ禅僧ニ人同船、清川ニテ別ル。青海チナミ有。)是又、平七方へ新庄甚兵ヘヨリ状添。関所、出手形、新庄ヨリ持参。平七子、呼四良、番所ヘ持行。舟(ママ)ツギテ、清川ニ至ル。(三リ半酒井左衛門殿領也。)平七ヨリ状添方ノ名忘タリ。(此間ニ仙人堂・白糸ノタキ、右ノ方二有。)状不レ添シテ番所有テ、船ヨリアゲズ。(一リ半)厂川(ニリ半)羽黒手向。(荒町。)

奥の細道ルート案内

マーカーリスト

説明

29日(新暦15日)夜小雨 同 同

 黒滝山向川寺を訪れる。

30日(新暦16日)朝曇、後晴 同 同

6月1日(新暦17日) 新庄 渋谷甚兵衛

 途中、猿羽根峠を越えて新庄へ。峠の街道筋は失われていて、明治の道になります。

2日(新暦18日) 同 同

3日(新暦19日)晴 羽黒 南谷院居所

 最上川下りである。
 本合海まで、47号線に沿ってまっすぐ行く道を紹介する本やHPがありますが、歴史の道調査報告書によると角沢経由で、そちらを歩きました。随行日記では、本合海まで一里半とあり、まっすぐ行く道でもそれ以上になります。曾良の一里は5~6kmでしょうか。尾花沢から山寺まででも、7里ばかりではありませんでした。角沢経由では10km以上となるので、芭蕉は47号線沿いに行ったのではないかと思い始めました。ルートは両方にしました。
 芭蕉は、本合海から舟で古口まで行き、舟を乗り継ぎ清川まで下ったようである。今は、古口から草薙までと短い区間ですが舟で下れます。国道には歩道がないところも多いので、私は舟に乗りました。ルートマップでは歩くことになっていますが、舟下りがお勧めです。途中、仙人堂、白糸の滝を見る。
 JR清川駅のすぐさきで線路を越えるところには踏切がありません。国道に出てだいぶ先で線路を越えることになるかもしれません。

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