十二日、平和泉と心ざし、あねはの松緒だえの橋など聞傳て、人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道、そこともわかず、終に路ふみたがえて石の巻といふ湊に出。こがね花咲とよみて奉たる金花山海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竃の煙立つゞけたり。思ひがけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり尾ぶちの牧まのゝ萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。
一 十日 快晴。松嶋立(馬次ニ而ナシ。間廿丁斗。)。馬次、高城(キ)村、小野(是ヨリ桃生郡。貳里半)石巻、(四里余)仙台ヨリ十三里余。小野ト石ノ巻ノ間(牡鹿郡。)、矢本新田ト云町ニテ咽乾、家毎ニ湯乞共不與。道行人(刀さしたる)、年五十七八、此躰を憐テ、知人ノ方ヘ一町程立帰、同道シテ湯を可レ與由ヲ頼。又、石ノ巻ニテ新田町、四兵ヘと尋、宿可借之由云テ去ル。名ヲ問、ねこ村(小野ノ近ク)、コンノ源太左衛門殿。如教、四兵ヘヲ尋テ宿ス。着ノ後、小雨ス。頓而止ム。日和山と云ヘ上ル。石ノ巻中不残見ゆル。奥ノ海(今ワタノハト云。)・遠嶋・尾駮ノ牧山眼前也。眞野萱原も少見ゆル。帰ニ住吉ノ社参詣。袖ノ渡リ、鳥居ノ前也。
一 十一日 天気能。石ノ巻ヲ立。宿四兵ヘ・今一人、気仙ヘ行トテ矢内津迄同道。後、町ハヅレニテ離ル。石ノ巻、(2リ)鹿ノ股(1リ余渡有。)、飯野川(三リニ遠し。此間山ノアイ、長キ沼有。)矢内津(曇)(一リ半。此間ニ渡し二ツ有。)戸いま(伊達大蔵)、宿不借(儀左衛門、仍検断(検断庄左衛門。)告テ宿ス。
一 十二日 曇。戸今を立。(三リ)(雨降出ル)上沼新田町(長根町トモ)、(三リ)安久津(松嶋ヨリ此迄両人共ニ歩行。雨強降ル。馬ニ乗。)(一リ)加澤、(三リ、皆山坂也。)一ノ関黄昏ニ着。合羽モトヲル也。宿ス。
10日(新暦26日)快晴、夕方小雨 石巻 四兵衛
石巻街道を行く。小野までは高城町から松島高校の側を通って、一ノ渡、左坂、上下堤を通っているようです。左坂から上下堤まで十文字を通るのが通説のようですが、「松島町史」の近世を執筆した高倉淳さんのHPでは、左坂で国道に合流する道について、登米伊達の仙台城への参勤の道と説明され、こちらが石巻街道のようです。仙台領の天保国絵図や元禄国絵図をみても、あてら坂で古川宿に向かう松山道と小野を通って石巻に行く道が別れています。十文字を石巻街道が通っていたというのは誤りだったようです。
高倉淳さんは、本文の「雉兎蒭蕘の往かふ道」というところから、七ムジリ坂を芭蕉が通ったとの説も挙げられていますが、道を間違えたのは虚構であると云われています。
上下堤から先、左に分かれ、三陸自動車道を越えてからの旧道は、廃道になりかけ、最後が土砂採取により立ち入り禁止となっているので、ルートマップは別の道にしました。
迅速地図では、小野の街を真っすぐ行く道がありますが、気仙道と石巻街道の追分があり、そちらを通るほうが古い道と思い、そちらをルートとしました。
歌枕の「尾ぶちの牧」は、日和山公園の対岸の牧山の山麓のようである。山頂には零羊崎神社があり、歌枕「尾ぶちの牧」を詠み込んだ歌と「おくのほそ道」ゆかりの地であることを示す標柱建っているそうです。
また、真野の長谷寺には、「真野萱原伝説地」の標柱があるそうです。
奥ノ海は万石浦で、遠嶋は男鹿半島のことだそうです。
11日(新暦27日)晴 登米 検断庄左衛門
柳津までは気仙みち、そこからは一関街道を登米へ。
12日(新暦28日)雨、後強雨 一関
金沢まで一関街道を行くが、そこからは大雨のため皆山坂を越えて一関に行ったようだ。(芭蕉庵ドットコムに解説がある。)