あさか山

奥の細道本文

等窮が宅を出て、五里計桧皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと人〃に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみかつみと尋ありきて日は山の端にかゝりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福崎に宿る。

随行日記

一 廿九日 快晴。巳中尅、發足。石河瀧見ニ行。(此間、さゝ川ト云宿ヨリあさか郡)須か川ヨリ辰巳ノ方壱里半計有。瀧ヨリ十余丁下ヲ渡リ、上ヘ登ル。歩ニテ行バ瀧ノ上渡レバ余程近由。阿武隈川也。川ハヾ百二三十間も有之。瀧ハ筋かヘニ百五六十間も可有。高サ二丈、一丈五六尺、所ニヨリ壱丈斗ノ所も有之。それヨリ川ヲ左ニナシ、壱里斗下リテ(白)小作田村と云馬次有。ソレヨリ貳里下リ、守山宿と云馬次有。御代官諸星庄兵ヘ殿支配也。問屋善兵ヘ方ヘ(手代湯原半太夫)幽碩ヨリ状被添故、殊之外取持。又、本實坊・善法寺ヘ矢内彌市右衛門状遣ス。則、善兵ヘ、矢内ニテ、先大元明王へ参詣。裏門ヨリ本實坊へ寄、善法寺へ案内シテ本實坊同道ニテ行。村レ雪((ママ))歌仙絵 、讃宗鑑之由、見物。内、人丸・定家・業平・素性・躬恆・五ふく、智證大し並金岡がカケル不動拝ス。探幽ガ大元明王ヲ拝ム。守山迄ハ乍單ヨリ馬ニテ被送、昼飯調テ被添。守山ヨリ善兵ヘ馬ニテ郡山(二本枩領)迄送ル。カナヤト云村へかゝり、アブクマ川ヲ舟ニテ越、本通日出山ヘ出ル。守山ヨリ郡山ヘ貳里余、日ノ入前、郡山ニ到テ宿ス。宿ムサカリシ。

一 五月朔日 天気快晴。日出ノ比宿ヲ出、一里半来テヒハダノ宿、馬次也。町はづれ五六丁程過テ、あさか山有。一り塚ノキハ也。右ノ方ニ有小山也。アサカノ沼左ノ方谷也。皆田ニ成、沼モ少残ル。惣而ソノ邊山ヨリ水出ル故、いづれの谷ニも田有。いにしへ皆沼ナラント思也。山ノ井ハコレヨリ西(道ヨリ左)ノ方三リ程間有テ、(大山ノ根。)帷子ト云村(高倉ト云宿ヨリ安達郡之内。)ニ山ノ井清水ト云有。古ノにや、不しん也。二本松の町、奥方ノはづれニ亀ガヒト云町有。ソレヨリ右之方ヘ切レ、右ハ田、左ハ山ギワヲ通リテ一リ程行テ、供中ノ渡ト云テ、アブクマヲ越舟渡し有リ。その向ニ黒塚有。小キ塚ニ杉植テ有。又、近所ニ観音堂有。大岩石タヽミ上ゲタル所後ニ有。古ノ黒塚ハこれならん。右ノ杉植し所は鬼ヲウヅメシ所成らんト別當坊申ス。天台宗也。それヨリ又、右ノ渡ヲ跡ヘ越、舟着ノ岸ヨリ細道ヲつたひ、村之内ヘかゝり、福岡村ト云所ヨリ二本松ノ方ヘ本道ヘ出ル。二本枩ヨリ八町ノめヘハ二リ余。黒塚ヘかゝりテハ三里余有べし。

福嶋八町ノめヨリシノブ郡ニテ福嶋領也。福嶋町ヨリ五六丁前、郷ノ目村ニテ神尾氏ヲ尋。三月廿九日、江戸ヘ被参由ニテ、御内・御袋ヘ逢、すぐニ福嶋ヘ到テ宿ス。日未少シ残ル。 宿キレイ也。

奥の細道ルート案内

マーカーリスト

説明

29日(新暦16日)快晴 郡山

 須賀川を発ち、石河瀧(乙字ヶ滝)に行き、小作田を通って守山へ。ルートが不明な点が多い。
 須賀川の芭蕉記念館で配っているらしい地図を参考にルートを紹介してるページや石川街道を紹介しているページ、国土地理院のHPで見れる迅速地図や随行日誌を参考にしている。
 芭蕉は1kmほど下流の田中の渡しを渡って乙字ヶ滝に行ったと説明されているHPが多いので、私は田中の渡しのそばの男滝橋を渡って乙字ヶ滝までいきました。随行日誌でも、乙字ヶ滝まで、滝の下流十余丁を渡ったとあり、1kmほど下流を渡ったことになります。ところが実際には、乙字ヶ滝から田中の渡しまで、川沿いに3km程あります。田中の渡しを渡ったというのは、どう考えても間違いであって、男滝橋よりもずっと上流の馬が渡れる浅瀬の場所を渡ったことになります。
 滝から男滝橋までの間に橋はないので、ルートは滝のそばの橋を渡ることにしました。
 また、小作田の手前の水郡線を渡った先の石川街道は、人の家で通れなくなっていて、私は左に迂回し、ルートもそのようにしていますが、国土地理院の地図を見ると、右に少し行ったところから、点線で書かれた道があり、尾根筋の道にでられるようになっていますが、通れるかわからないので緑色のルートとしました。
 迅速地図には、湯ノ川で真っすぐ岩作に向かう道がなく、岩作よりもっと守山よりに出る道しかないのが気になりますが、岩瀬四郡絵図(郡山市図書館)に、湯ノ川から岩作への道が描かれているので、明治41年測量の地図にある湯ノ川から岩作への道をルートとしました。
 田村神社(本實院善法寺、大元明王)のある守山宿をとおり郡山へ。
 阿武隈川を金山橋で渡るようにしていましたが、随行日記によると、金屋の渡しを渡って日出山に出たようです。迅速地図をみると、金山橋のところを通る道もありますが、阿武隈川は蛇行し、金屋のそばを通っていて、金屋から日出山に行く道があったようで、岩瀬四郡絵図にも金屋から日出山への道が書かれています。渡しは、金屋で左に曲がって300m余り先の右手にある墓地の手前の用水路のあたりに船着き場があったそうです。その先の道は失われていますが、なるべく近くを通るようにルートを変更しました。奥州街道に出る角には、是従岩城道とある十九夜塔が残っているそうです。

5月1日(新暦17日)快晴 福島

 本来は額取山といわれている安宅山を見、二本松の亀が谷を右に折れて黒塚を見、福岡で奥州街道に戻り、福島へ。 亀が谷から山際に細い道があり、こちらを芭蕉が歩いたのではないかと思われる。黒塚からの道は、随行日記によると、右の渡しを渡り、村之内を通って奥州街道の福岡にでたとのことで、村之内がどこかわからなかったのですが、迅速地図では、新幹線が阿武隈川を渡ったあたりの地名が森内とあり、曾良が「もり」を「むら」と聞き違えたのかもしれません。ルートは安達ヶ橋の途中から福岡まで道なりでいくようにしています。

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