2007年3月17日
中高野街道、西高野街道と歩いて、東高野街道を歩いていないのが心残りで、単身赴任の最後の月になりましたが、天気も良さそうなので歩いてみることにしました。Y氏もつきあってくれることになりました。
京阪で八幡市まで行き、木津川の堤防まで行って、そこを出発点としました。
京街道を歩いたときの見覚えがある御幸橋です。
駅まで戻るとすぐ先に石清水八幡宮の鳥居がありました。八幡宮の本殿は山の上で、小学校の時に見ているので割愛して先に進みます。
曲がり道に新旧の道標がありました。新しいのは八幡市内のところどことにあります。
宇治への近道の巡検道の道標がありました。綴喜郡と久世郡の郡界であったそうです。
街道筋らしい家も残っています。
右手に正法寺がありました。家康の側室であったお亀の菩提寺だそうです。
少し先に石の道標がまたありました。多くの道標があります。江戸時代のものも多く残っているようですが、昭和2年のものが多くあります。
少し先で右に別れて行きますが、左の路を少し行ったところに松花堂庭園がありました。男山から移築されたそうです。
少し行って、この道標のところから右に行きます。
ゆるやかな坂を上っていくと、右手に竹林が続き円福寺がありました。ここらあたりが洞ヶ峠のようです。
この先、案内では国道の手前に道があるようになっていましたが、道はなく、さらに手前の道を行きます。
国道に出てしばらく行きます。国道から右に外れていくと出屋敷で、街道らしい雰囲気となります。
生け垣の中に道標が埋もれています。
広い道に出て少し行くとコンビニがあったのでスジとタマゴのおでんと発泡酒でのどを潤す。
街道はしばらく行って川を渡ったところから左に入り、郡津あたりは雰囲気の残った道となります。
また、広い道に出るが、すぐ川を渡ったところから左に入る。茄子作の工事中のところで真っ直ぐ行くところを右に行きすぎ、住宅の中を左に戻って街道筋に戻った。そのすぐ先に本尊掛松の地蔵がありました。
すぐ先に2基の道標がありました。
少し行くと製鉄所にぶつかり、左に迂回するとけっこう長かった。右に迂回する方が良かったかもしれない。
迂回した先に地蔵さんが並んでいた。迎え地蔵と言うそうです。
星田駅の近くに来ると一里塚跡の碑がありました。
駅を過ぎると広い道の手前に大井川万吉と彫られた石碑があった。河内相撲から江戸相撲にまで出世した力士だったそうです。
広い道を渡ったところには大谷北のお大師さん・地蔵さん・柳谷さんが並んでいます。
また広い道に出るが少しで左に入ると大谷南の大師祠がありました。
少し先の広い道を横切る手前に弘法井戸がありました。
東寝屋川駅の手前に道標がありました。道標には「東 なら いせミち」とあり、奈良伊勢道との交差点だったそうです。
駅のそばの中華屋さんで昼飯となりました。
広い道を行くと左に「お大師さん」の祠がありました。打上の周辺には、古くから多くの古墳があったそうで、その石を使っているとのことです。
広い道から左に外れて行くところに二月堂灯籠がありました。
忍ヶ丘駅を過ぎたところで少し迷うがなんとか街道筋に出て進む。
少し行くと清滝街道との交差点に出ました。ここから少し右手にずれます。
歴史民族資料館のそばを通って、また広い道と合流し、少し行くと左手に四条畷神社の鳥居がありました。
広い道から左に外れて行くと龍間不動尊への道標がありました。不動さんは山の上のようです。
また広い道と合流して行きます。お寺があるのか石の柱が立っています。
石切町に入りました。左に2つ並んだお堂がありました。
石切神社の参道です。
石切神社と同じく病気平癒に祈願すると願いが叶うという石切藤地蔵がありました。
少し行くと見覚えのあるところに出ました。暗越との交差するところです。
また少し行くと枚岡神社の鳥居がありました。
広い道と合流するところに東高野街道・道路改修記念碑がありました。ここからアーケードですぐ瓢箪山の駅です。
少し早めですが、疲れたのと夜のお別れパーティーのためにここから帰りました。T夫妻も合流しY氏宅で宴会となりました。