2006年6月17日
ネット検索で調べると、中百舌鳥乗り換えが安いというので、阪急の始発に乗り、梅田で急いで地下鉄に乗り換え、中百舌鳥から南海で河内長野に着いた。
歩き始めると長野神社があった。
長野神社の手前を右手に折れて行くと、造り酒屋があった。帰って調べるとおいしいお酒を造っているようだ。
町を抜けて少し行くと、烏帽子形神社があった。素盞鳴命・足仲彦命・神功皇后・応神天皇を祀っており、本殿は1480年に建立され、国の重要文化財に指定されているそうだ。裏手の山は烏帽子形城の城跡だそうである。
すぐ先に地蔵堂があり手前に道標がある。和泉道との分岐だそうである。
しばらくで地蔵堂がある公園にでた。そばに上田町の史跡の説明板がある。胸切地蔵とか堂の辻地蔵などの説明がある。このお堂のところには増福寺が応永年中に建立されたと伝えられ、その本尊は厨子入り地蔵菩薩半跏像だそうですが、現在は正法寺に安置されているとか。
三日市町に入るととっても雰囲気の残っている町並みになる。
駅をすぎて少し行くと川のほとりに女人高野の八里の里石があった。
国道に出て少しで、加賀田に一国一宇庚申堂があった。堂内に安置した本尊の厨子は法隆寺の玉虫厨子と同一の形式だそうである。この先右に入り国道と別れる。
また、国道を一緒になり歩道もなくなる。歩きにくい。旧道らしき道が左に分かれていたが、違っているようで急斜面の藪を登り国道に戻る。そのうち右に国道から別れ、国道と合うと左に入る。道標がある辻に出た。御所の辻と呼ばれているらしい。
しばらく国道を外れて歩く。松明家があった。この家の住人のもてなしを受け、そのお礼に空海は粽の製法を教え、不要になった松明を突き立てたところ、松明が芽を出し、やがて大木に成長したという話が在るそうだ。
国道とまた合流。女人高野の里石があった。
旧街道かどうか右に外れ幼稚園の下を行く道が少しあり、また国道に戻り、天見駅のそばをすぎまた右に国道から別れる。立派な屋敷があった。
国道の旧道から別れて真っ直ぐ登るように案内にはあるが、道がないので旧国道を峠に向かって登る。大分登って峠に着いた。
旧街道は峠で左に別れていく。別れたところに里石があった。
宿場の雰囲気のある集落を抜けて、どんどん下る。沓掛の地蔵堂があった。
国道とまた一緒になった。コンビニで軽食と発泡酒で小腹を満たす。慶賀野から国道と別れるところに不動堂があった。
しばらく国道と離れて歩いたが、また国道に出た。里石があった。
橋谷大橋をくぐる手前で右に国道から別れる。少し行くと地蔵尊があった。
御幸辻から橋本を通っていくほうに里石はあるそうだが、慈尊院に向かうにはここで別れて菖蒲谷を通って行く方が自然であると考え、西に向かった。近世より前はこっちの道であったそうである。
南海の駅をすぎてしばらく行くと普賢寺の道標があった。
少し先の細道に入るところに板石の道標があった。
ため池のそばをすぎ案内では道祖の森に出た。
道を挟んで五輪塔があった。
出塔を過ぎ、権現社があった。
道向かいに西国巡礼供養塔があった。
紀伊山田駅を過ぎ、しばらく歩いて伏原の地蔵尊である。
普門院大神社があった。
小田神社があった。物部建彦連公を祭っているそうだ。
看護学校のそばで紀ノ川のほとりに出た。向かいがゴールの慈尊院だが、渡し船はないので、九度山橋を渡って、帰った。