2006年6月4日
町石道を歩いたが、九度山までを歩いていないので、大阪府と和歌山県の歴史の道調査報告書で道を調べて歩いてみることにしました。
四天王寺までは熊野古道で歩いているので、出発は四天王寺前夕陽ヶ丘駅です。見覚えのある天王寺警察署前から初めての道となります。すぐ、五條宮があります。四天王寺創建の際に、医道の祖神五條大神、少彦名命を祀ったのが始まりだそうです。
すぐ四天王寺東大門の前に出ます。ここから東に2本ずれ、南に下ります。
すぐに久保神社がありました。天王寺七宮の一で旧久保村の産土神だそうです。
国道を渡り大道3丁目にはいると河堀稲生神社がありました。ここも天王寺七宮の一で社名「昼ヶ丘竜山宮崇峻天皇社」と称し、祭神は第32代崇峻天皇だそうです。この先、左に折れ、寺田町の駅をすぎ、国道に沿っていきます。
国道の一本南に旧道が残っているところも多い。平野上町2丁目のところに道標があった。この先右に折れ、南に向かう。
このような雰囲気の残っている道が続きます。
平野本町5丁目あたりに地蔵堂がありました。流口地蔵という名のようです。
喜連にはいると北口地蔵尊があります。
すぐ、楯原神社がありました。祭神は建御雷命と大国主大神で、神武天皇が国内平定に用いた十握の劒が祀られているそうです。
瓜破に入ると瓜破天神社がありました。僧道昭が修行中に天神の尊堂が現れ、瓜を割って供えた地だそうです。
大和川にぶつかり、右手の高野大橋を渡り戻ります。振り返って大阪側を見たところです。
三宅に入ると屯倉(みやけ)神社がありました。菅原道真が道明寺の叔母の覚寿尼に別れをされた後参詣し、この時に腰をかけたと云う「神形石」が境内に残っているそうだ。
面白い名前の商店街と思いましたが、「あお」とか「あぼん」とか読むそうです。
阿保茶屋の碑がありました。長尾街道との交差点です。
竹内街道との交差点に道標がありました。ここから少し東に行ってから南下するようになっていますが、中央環状線を渡ることができないので、そのまま南下します。
真福寺で左折すると櫟本(いちいもと)神社の鳥居がありました。
すぐ先に道標がありここを右折しすぐ広い道に戻ります。
案内では舟渡池から右の用水路沿いに行くようになっているが歩きにくく途中であきらめる。その先の釣り堀の池からは広い道の左手が歩けるようになっている。また広い道に戻ったところに菅生神社の鳥居があった。
大阪狭山市駅に入る角に道標があった。
駅のそばにも新旧の道標があった。
線路沿いに行くと街道らしい雰囲気の残った道である。
富田林市に入ると安楽寺があった。この先の滝谷駅の手前は宅地造成で道がなくなっている。
松ヶ丘に入ると大峰登山記念の石碑と地蔵堂があった。
すぐ先に春日神社があった。すぐ裏が松林寺のようだ。
楠町に入って、西高野街道と合流点である。地蔵堂があります。
坂を下ると、また地蔵堂がありました。
少し歩くと右手に清明塚がありました。安倍清明の経典を埋めた場所だそうである。
国道の高架を越えると左手に旧阿弥陀寺の石造物群がありました。板石に仏像が刻まれています。
案内では広い道に出て、まっすぐ行かず左の病院の裏手を行くのが高野街道のようである。真っ直ぐ行く道の方に女人高野の里石があるそうだが、案内の道を行くことにした。東高野街道との合流点の地蔵堂に着いた。
商店街を抜け、駅のそばにでたが、新しい石碑があった。ビールを飲みながら南海電車で難波まで行き、帰った。