路通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて、大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子荊口父子、其外したしき人〃日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
17日(新暦30日) 木之本か
この日か翌18日には、路通が道案内をして大垣に向かったそうです。
敦賀から木之本まで、久々坂峠を越える刀根越で柳ガ瀬にでたとも、塩津街道を通ったとも云われているそうです。
塩津街道をいくには、塩津まで、新道野越と深坂峠越の2つのルートがあったようですが、芭蕉が通ったころは新道野越が主だったようです。塩津からは、琵琶湖を行く海路が主だったようで、陸路としては、常夜灯のところから左に行き、権現峠を越えて余呉湖の北を通って北国街道に出るルートと、8号線に沿って、藤ヶ崎トンネルの上の峠を越え、飯浦を通り、賤ヶ岳隧道の上の峠を越えて大音から木之本に出るルートがあったようです。
近江の慶長国絵図にも天保国絵図にも、刀根越えのルートは書かれていますが、塩津からの道は、飯浦から木之本までの道はありますが、飯浦までの道が書かれていません。慶応3年の越前近江糧道測量絵図には、塩津からの権現越えと、飯浦道(地獄坂)が書かれ、江戸時代に塩津から木之本に越える道はあったようですが、明治18年の滋賀県管内実測図(近江国各郡町村絵図)を見ると、刀根越えは赤の実線で書かれていますが、塩津からは権現峠越えだけが赤の点線で書かれていて、明治になっても敦賀から木之本に陸路で出るには刀根越えが主流だったようです。塩津海道といわれるように、塩津からは海路で行くのが普通だったようです。なお、賤ヶ岳隧道の上を越える道は地理院の地図では大音に降りる道がなく、いまでは廃道化しているようです。
曾良は塩津に出て舟に乗ったのではなく、木之本に泊まり長浜までいってから舟に乗っています。塩津から長浜や彦根に向かう舟がなかったのでしょうか。国絵図にも書かれていない道を、塩津から山越えをして木之本に曾良がいったとは思えません。
ちなみに、移動距離と登りの標高差をみると、刀根越えは18.4km、390mですが、大音経由の塩津越えは19.6km、590m、権現峠経由の塩津越えは19.6km、490mになり、刀根越えが近いし登り下りも少なくなります。国絵図にも書かれていない道を通ってでも、余呉湖や琵琶湖を見たいという強い思いがなければ、曾良は刀根越えを選んだでしょう。
本文によると、芭蕉も馬にたすけられていったそうだから、塩津から舟に乗ったのではなく、曾良の跡を追って木之本まで行ったと思い、刀根越えをルートとしました。
18日(新暦10月1 日) 春照あたりか
木之本からも、北国脇往還を行ったか、曾良のように長浜を通ったか2説あるようですが、曾良のように舟で彦根に渡り、多賀神社に寄るのでなければ、近道の北国脇往還を馬で行っただろうと思われ、こちらをルートとしました。
19日(新暦2日) 関が原
大清水、寺林、藤川を通って関が原へ。下草刈りなどの手入れがされていなけば歩行困難と思われるところが数か所あります。(緑のルート)
20日(新暦3日) 大垣か 近藤如行か
垂井までは中山道。垂井の追分から大垣みちへ。大垣について如行邸で弟子たちの歓迎を受けたことでしょう。大垣では主に如行邸に滞在したようです。なお、室本町の蛭子神社に「俳人如行旧屋敷址」と刻まれた石碑があるそうです。大垣滞在期間に、如行邸のほか、木因邸、斜嶺邸、左柳邸などで句会をひらいているそうで、それらのところに泊まったこともあったかもしれません。
敦賀から大垣までについて、横山邦治著「『おくのほそ道』紀行私記 : 敦賀から大垣まで」に諸説が説明され、参考になります。
21日(新暦4日) 大垣 近藤如行
22日(新暦5日) 同 同
23日(新暦6日) 同 同
24日(新暦7日) 同 同
25日(新暦8日) 同 同
26日(新暦9日) 同 同
27日(新暦10日) 同 同
28日(新暦11日) 同 同
『漆嶋』(白川撰、宝永三年八月自序)によると、この日に赤坂の虚空蔵(金生山明星輪寺)を訪れたようです。ルートを青色で加えました。
29日(新暦12日) 同 同
9月1日(新暦13日) 同 同
2日(新暦14日) 同 同
3日(新暦15日)晴 同 同
曾良が療養していた長禅寺から大垣につく。
4日(新暦16日)晴 同 同
「如水日記」によると、この日に戸田如水に招かれ、路通、如行らと室下屋を訪れたようです。その後、浅井左柳のところを訪れ、歌仙を開いています。
5日(新暦17日)晴 同 竹嶋六郎兵衛
6日(新暦18日)大垣出立