月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は左の山際一里半計に有。飯塚の里鯖野と聞て尋尋行に、丸山と云に尋あたる。是庄司の旧館なり。梺に大手の跡など人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀弁慶が笈をとゞめて什物とす。
笈も太刀も五月にかざれ帋幟
五月朔日の事也。
福嶋ヨリ東ノ方也。其邊ヲ山口村ト云、ソレヨリ瀬ノウヱヘ出ルニハ月ノ輪ノ渡リト云テ、岡部渡ヨリ下也。ソレヲ渡レバ十四五丁ニテ瀬ノウヱ也。山口村ヨリ瀬ノ上ヘ貳里程也。
一 瀬ノ上ヨリ佐場野ヘ行。佐藤庄司ノ寺有。寺ノ門ヘ不入。西ノ方ヘ行。堂有。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有。ソノワキニ兄弟ノハタザ ホヲサシタレバはた出シト云竹有。毎年、貳本づゝ同ジ様ニ生ズ。寺ニハ判官殿笈・弁 慶書シ経ナド有由。系図モ有由。福嶋ヨリ貳里。こほりヨリモ貳里。瀬ノウヱヨリ一リ半也。
迅速地図では、月の輪大橋より少し上流に渡しがあったようで、瀬上駅の辺りを通って瀬上宿に行く道があったようですが、ルートは月の輪大橋を渡って行くようにしました。月の輪の渡し碑の場所は、川から東に離れてあり、芭蕉の歩いたころには、川がもっと東に流れていてたとのことです。
月の輪の渡しは当時はなく、もっと下流の箱崎の渡しを渡ったのであり、芭蕉の虚構ではないかと書いたものがありましたが、随行日記にも「月ノ輪ノ渡リ」とあり、曾良が虚構を書くわけもなく、随行日記を信じれば、芭蕉が月の輪の渡しを確かに渡ったことになります。