開始日時 | 2013/12/01 06:53:58 | 終了日時 | 2013/12/01 11:10:56 |
水平距離 | 17.41km | 沿面距離 | 17.44km |
経過時間 | 4時間16分58秒 | 移動時間 | 3時間58分42秒 |
全体平均速度 | 4.07km/h | 移動平均速度 | 4.36km/h |
最高速度 | 7.48km/h | 昇降量合計 | 128m |
総上昇量 | 64m | 総下降量 | 64m |
最高高度 | 46m | 最低高度 | 25m |
開始日時 | 2013/12/01 11:43:35 | 終了日時 | 2013/12/01 16:09:10 |
水平距離 | 19.67km | 沿面距離 | 19.74km |
経過時間 | 4時間25分35秒 | 移動時間 | 4時間20分37秒 |
全体平均速度 | 4.46km/h | 移動平均速度 | 4.54km/h |
最高速度 | 5.47km/h | 昇降量合計 | 551m |
総上昇量 | 275m | 総下降量 | 276m |
最高高度 | 149m | 最低高度 | 24m |
2013/12/01 06:57:27
駅前の通りを行くと芭蕉の辻と日本の道百選の石碑がありました。
今日は平泉を往復してから、岩ヶ崎まで行く予定だったのですが、本文に「衣川は和泉が城をめぐりて高館の下にて、大河に落入」とあるし、随行日記にも「霧山(泉城ヨリ西)見ゆルト云トモ見ヘズ」とあり、泉ヶ城まで行ってみることにしました。そうすると歩く距離が長くなりすぎるので、平泉から一関までの帰りはJRを利用することに変更です。
2013/12/01 07:10:50
磐井川の橋のたもとに二夜庵跡の碑がありました。
川を渡ってすぐ左に行きます。
2013/12/01 08:39:45
太田川を渡ります。金鶏山や高館など平泉一帯が見渡せます。
2013/12/01 08:50:37
伽羅御所跡の標柱にしたがって右に入ると、案内板がありました。吾妻鏡によると三代秀衡、四代泰衡の居所だったそうです。
2013/12/01 08:56:37
少し東に行くと柳の御所跡がありました。吾妻鏡の平泉舘の跡で藤原氏の政務の場だったようです。
2013/12/01 09:08:22
義経の終焉の地といわれている高館ですが、この10月の旅行の際に見学したので、下から眺めるだけで通り過ぎます。
2013/12/01 09:15:24
中尊寺の入り口の手前には武蔵坊辨慶の墓がありました。
2013/12/01 09:16:05
中尊寺、こちらも10月に見学したので割愛し、泉城に向かいます。1970年頃の地図には中尊寺から道が描かれていますが、今の地図には無いので、国道で衣川を渡ってから左に行きます。
2013/12/01 09:45:26
衣川の土手を歩いて泉ヶ城に着きました。ここに藤原秀衡の三男和泉三郎忠衡の居館があったのでしょう。業近柵ともいうそうです。今は民家がたっており、関係者以外立ち入り禁止の小さな札があったので、ここまでで戻ります。案内などは一切無いようです。
2013/12/01 09:53:53
すぐ近くに案内板があるので、見に行くと、この地は安倍頼良(頼時)と貞任の居城「衣川柵」の跡地だと伝えられているそうで、並木屋敷という地名は、頼時が柵の外に桜を巡らせたことによるそうです。
2013/12/01 10:03:26
帰りは土手ではなく集落の中を歩いて帰っていると、衣の関道の碑がありました。中尊寺のほうに向かっている道がそのようです。
芭蕉が歩いたのは衣の関道だったのかもしれません。
2013/12/01 10:06:41
すぐのところに接待館遺跡がありました。藤原秀衡の母がここで旅人を接待したという地元の伝承があるそうです。源義経が自害した藤原基成の屋敷、衣川館跡の可能性もあるそうです。
2013/12/01 10:32:26
平泉に戻って線路を越えたところに卯の花清水がありました。行きには通り過ぎていました。曽良の「卯の花に兼房みゆる白毛かな」の句が名前の由来だそうです。
2013/12/01 10:41:08
行きは柳の御所から細い道を辿りましたが、帰りに街道を歩いていると無量光院跡がありました。宇治の平等院鳳凰堂をモデルに三代藤原秀衡が建立したそうですが、発掘調査が続いているようです。
2013/12/01 11:59:07
平泉駅で時間があったので蕎麦屋で軽く食事をし、一関までJRで戻って歩き始めます。しばらく歩くと迫街道が右に分かれています。国道とは違って街道らしい道幅で爽快に歩けます。
2013/12/01 12:00:37
すぐに庚申塚がありその右に小さな道標がありました。「これ従(より)右ハはざま道、左ハせんだい道」とあるそうです。
2013/12/01 12:22:52
少し歩くと迫街道一里塚跡(新山)の標柱がありました。
2013/12/01 12:44:17
旧道はここから上っていくのですが、途中までしか行けないとか、消失していると説明しているHPが多くあり、どうするか悩んでいたのですが、昨年に通ったという地図付のHPがあったので、私も行ってみることにしました。
2013/12/01 12:54:07
道幅もあり、問題なく歩いてくると、芭蕉行脚の道の標柱がありました。この先下っていくようで、道が続いているか心配です。
2013/12/01 13:06:18
何の問題もなく快適に歩いて、高速のガードを潜ると、刈又一里塚の説明板がありました。
2013/12/01 13:07:26
すぐに道が分かれており、右の細いほうへ行きます。
2013/12/01 13:14:41
刈又一里塚の傍までくると、奥の細道の冒頭を刻んだ碑がありました。
2013/12/01 13:15:00
すぐ先には刈又一里塚があります。左右きちんと残っています。
2013/12/01 13:37:06
途中、「この先通り抜けできません」との看板が横向きにおいてありましたが、問題なくゴルフ場の練習グリーンの傍に出ました。
クラブハウスの左を抜け、駐車場を横切って、ゴルフ場と後にします。
2013/12/01 14:13:24
宮城県の入ったからか、奥州上街道との標柱がところどころにあります。そのうち芭蕉行脚の道 赤児大橋との標柱がありました。このすぐ先に旧道が残っているようで、少し先を右に入っていきます。
この旧道の最後は舗装道路の切り開きで急坂になって、その先は失われているようで県道歩きとなります。
2013/12/01 14:54:37
県道の道端に一里塚の標柱がありました。刈又一里塚から大分あるいたので二里でしょうか。
2013/12/01 16:00:17
岩ヶ崎の町に入り右左に曲がりながら駅前通りをすぎ、六日町を歩いています。
この先の突き当たりのそばの宿でまた、ゆっくり休みます。