2007年1月21日
女人高野へ一三里の里石をみて西高野街道を河内長野まで歩いたのに続き、残りの里石を見ようと、まだ歩いていない御幸辻から不動坂経由で高野山まで歩いてみることにしました。
御幸辻の駅から前に歩いた道を分かれ道のところまで戻ります。すぐ南に牛頭天王社がありました。その横を行こうとしたら行き止まりで、左前に進む道が正解でした。
坂を下って国道に出ます。川を渡って信号を左に入ると昔の街道らしき路に出ました。
この先すぐに国道に出ますが、少し行くと旧街道らしき道が右に別れます。国道に戻る手前で道がとぎれますが、細い路地を左に行くと国道に出ました。そこから、少し国道歩きです。
南海、JRの高架を過ぎ、左に別れるところに道標が有りました。
細い道を川岸まで真っ直ぐ進むと、左に四里の里石があり、常夜灯がありました。東屋渡し場跡です。
渡しの舟はないので、すぐ上の橋で紀ノ川を渡ります。
紀ノ川を渡って、川に沿って下りますが、国道から右に別れてすぐに2つの常夜灯がある三軒茶屋跡がありました。渡し船だとここに着いたのでしょう。
すぐ先に地蔵堂がありました。六地蔵の第一番だそうです。
雰囲気の残る道を行きます。
一瞬迷った角に、よく見ると小さな道標に右かうやとあります。今でも役に立ちます。
お地蔵さんと常夜灯がありました。
雰囲気の残る道がずっと続きます。左に清水不動寺がありました。
学校の向かいにはお地蔵さんがありました。
右手に成就寺があります。
左手に鳥居が突然出てきました。社は大分南にあるようです。
国道と合流するところに六地蔵の第二番がありました。
国道を少し歩き、橋をわたって左に入ります。三里の里石がどこか探しながらもう少し行くと、右の家の玄関先にありました。
その左には学文路大師があります。一見、普通の民家風でした。
学文路の町にはいると、郵便局の前に昔の境界石がありました。
国道に出たところに慈尊院との分かれ道の道標がありました。これにも女人堂まで三里とあり、これが里石と紹介しているHPもありますが、学文路大師の向かいのものが里石と思われます。
国道を渡り、坂を上っていくと西光寺、刈萱堂がありました。この地は石童丸物語の舞台となったそうです。
坂を上っていきます。分かれ道が多いけど、地面に案内が埋めてあり、迷うところはあまりありませんが、怪しいところはGPSで確認しながら行きます。登り坂で暑くなり、トレーナーと中に来ていた毛糸のベストも脱ぎました。
そうこうするうちに六地蔵の第三番です。
トンネルのある広い道を横切ると、常夜灯と社がありました。すぐ先は溜池です。
峠を越えて下りに六地蔵の第四番があったらしいけど、行き過ぎたようです。左に急角度に曲がる角に道標がありました。
急な坂を下ると丹生神社がありました。そばにお寺もあります。
河根集落に入ると旧本陣がありました。立派な門構えです。
少し下って千石橋です。橋のたもとに二里の里石がありました。この先急な上りとなります。
坂が一息つく作水に六地蔵の第五番がありました。
また、登って桜茶屋に六地蔵の第六番がありました。
坂を上りきって尾根の上り下りの道になり、少し行くと日本最後の敵討ちの案内板がありその先にお墓がありました。
少し行くと最後の一里の里石など四本並んで立っていました。
そのすぐそばにはお堂がありました。
少し行くと広い道に突き当たり、真っ直ぐ行くと道がなくなっていました。右に曲がるのが正しいようです。坂を下って、南海電車に沿っていくと新極楽橋があり、その先に極楽橋がありました。こちらを渡っていよいよ不動坂です。
不動坂は車がちょうど一台通れるほどの立派な道です。道標がありました。
大分登ると左下に兒瀧が見えました。
すぐ先に清不動がありました。明治十四年焼失せしが大坂の信徒上田みちと申す善女之を一建立したそうな。
またすぐに宝篋印塔と2体の石像(不動明王とお地蔵さんかな?)がありました。
バス道と合流し女人堂の前まで来るとお竹地蔵がありました。
お竹地蔵の向かいは女人堂です。今日のゴールはここですが、せっかくなので金剛峰寺を拝観していくことにしました。
すぐ金剛峰寺に着きました。
お寺には屏風絵が多くあり、また、石庭もきれいに整備してありました。
時間が早いので、また、不動坂を歩いて下って、南海電車で帰りました。