相州道・大山道(程ヶ谷通り)


はじめに

 大山道をいくつか歩きましたが、保土ヶ谷からの大山道があり、相州道とも呼ばれているようなので、次に歩くために調べてみました。

 横浜市の教育委員会による「横浜の古道」によると、相州道は、東海道から保土ヶ谷の大門通りのところで分岐し、星川~坂本~市沢~三反田~本宿~二俣川~大和~厚木へ向かう道となっているそうです。海老名で青山通り大山道(矢倉沢往還)に合流して大山に行けるのでこれが大山道でしょうか。

 一方、東海道から八王子道が分かれる芝生追分には、台座に「大山近道」と刻まれている不動明王の道標があったそうで、近くの橘樹神社に移され、「神田不動尊」として祀られているそうです。追分からの八王子道は、和田町を通っていて、和田町で帷子川を渡れば、「横浜の古道」の相州道と合流します。こちらが大山道でしょうか。

 保土ヶ谷の大畠洋一さんは、ホームページ1ページ2ページ3で、大門通りから星川につながる道はなく、相州道は芝生追分で東海道から分かれていく道と、桜ケ丘を通るもう一つの相州道があったように説明されています。
 また、大山道について、ページ4で、柏尾通り大山道に合流する説を紹介されています。

資料

 国立国会図書館デジタルコレクションには、保土ヶ谷区郷土史や新編武蔵風土記稿、新編相模国風土記稿がコレクションされており、簡単に見ることができます。
埼玉県立図書館デジタルライブラリーには、東海木曽両道中懐宝図鑑がコレクションされており、簡単に見ることができます。

 歴史的農業環境閲覧システムにおいて、明治初期から中期にかけての迅速測図をみることができます。

 今昔マップでも、明治期の地図をみることができます。

 昔の道標が残っています。迅速地図で作成したルートとともに場所をグーグルマップで示します。

マーカーリスト

相州道

 保土ヶ谷区郷土史上巻に、文政7年(1824)の村差出明細帳というのが載っています。相州方面に向かう道と思われるのを拾い出してみます。
 神戸町の明細帳(p.179)には、
「町内から相州筋村道、都築郡今井村境まで、當町地内およそ二十町余りあり。その道幅二間半から三間まで御座候。」、
「古町通から隣村下星川村道同村境まで六丁半程あり、その道幅二間程御座候。」とあり、
帷子町の明細帳(p.184)には、
「八王子道、芝生村境から和田村境まで當町地付およそ十五町あり。その道幅二間から二間半まで御座候。」とあります。

 保土ヶ谷宿付近から相州方面に向かう道として、相州筋の村道、下星川村への村道、八王子道の3つの道があったことは確かなようですが、いずれも相州道とは記載されていません。三軒茶屋にある大山道道標にも相州道とあるように、「相州道」は相模の国に向かう道との意味で、特定の道を指すものではなかったようです。

 なお、大畠さんのホームページでは、文政七年保土ヶ谷宿の内帷子町絵図面(本陣文書)を根拠に、「帷子川北岸には交通路が発達しているが、南岸には道らしい道がないことが分かる。帷子川の土手に沿ってみみずの這ったようなあぜ道がほんの少し描いてあるだけで、大門通りから星川につながる道はなかった」と説明されています。この帷子町絵図面は上記の村差出明細帳と同じ年のもので、帷子町の村差出明細帳を作るために作られたものと思われ、帷子町以外の地域にある下星川村への村道が書かれていなくてもなんら不思議ではありません。神戸町の村差出明細帳からみて、道幅二間程の道があったことは確かなことです。
 また、保土ヶ谷区郷土史上巻p.86の次に宝暦(1751-1764)頃の絵図(下図)があり、これらの3つの道が描かれています。この絵図は、迅速地図と見比べても、かなり正確に描かれているようで、金沢横丁から月見台に上る坂やビール坂、岩井小学校から桜ケ丘へ上る坂なども描かれています。
 大門通はまだなかったようで、下星川村への道は、東海道から帷子川の北を古町橋まで行き、橋を渡ってすぐに下星川に向かい、途中でビール坂からの道に合流するように描かれているように見えます。


 3つの道について、更に見ていきましょう。

[芝生追分からの道・八王子道](芝生追分からの赤のルート)


 御分間御絵図御用宿方明細書上帳(分間絵図作成のための資料として提出されたものの控えだそうです。保土ヶ谷区郷土史上巻p.149-150)にも、野道や村道とは区別して八王子道と書かれているように、村道より格上の道だったようです。

 八王子道は帷子町から和田町に入ります。
 新編武蔵風土記稿の和田村のところには、「南方に相州道あり。仏向村より入り帷子町に通ぜり。この道村内を通ずること四百間余。」とあります。八王子道は、和田杉山神社にある道標を兼ねた道祖神がもとあった辻で、帷子川を渡って仏向町に入る相州道と別れ、再び帷子町に入るはずなのですが、書かれていません。「和田村道橋改修碑」(釜台町2) 元文2年(1737)にあるように、新編武蔵風土記稿のころには八王子道は改修されてよくなっていたと思われるのですが、帷子町からの八王子道が、また帷子町に入るので、帷子町を通る道と認識されているだけで和田村を通っているとの認識が低かったのでしょうか。帷子町の村差出明細帳にも、芝生村境から和田村境までの八王子道の記載はありますが、和田村からまた帷子町に入り、上星川村に入るまでの八王子道については同様に記載がありません。
 
 新編武蔵風土記稿の仏向村のところには、「村内に海道二條あり。其一は東の方、和田町より入て村内を経ること五町許にして、此の方坂本村へ達す。道幅一間半にあまれり。是を八王子往還と号す。・・・」とあり、
坂本村のところには、「東北の方に一條の路を開けり。是を八王子道と云。此道、東隣仏向村より入り川島村に通せり。」とあります。
 先の三反田村で二俣川方面と別れ、鶴ヶ峰の先で八王子道に合流できるので、和田村のところには相州道とあったのに、仏向村、坂本村のところには八王子往還、八王子道と書かれているようです。

 坂本村から川島村に入るのですが、川島村のところには、上星川村より入る八王子道が書かれているだけで、記載がありません。坂本村経由より上星川村経由のほうが、メインの八王子道だったようです。
 上の地図の三反田稲荷にある道標は、推定原位置5の辻にあって、相州から来た旅人を神奈川宿と保土ヶ谷宿に案内していたものでしょう。
 また、本村神明社にある道標は、推定原位置2の辻にあって、大山・厚木方面に旅人を案内していたと思われます。

 二俣川村のところには、「村内に一條の往還あり。神奈川宿より相州に達する道あり。東の方、川島村より入、村内を過る事三十丁余にして、西の方、川井今宿二村の間に達す。道幅三四間。此道の半より南の方、相州奈瀨村へ達する捷径あり。・・・」とあり、川島村より入る道の記載はありますが、瀬谷村の方に向かう道の記載はないようです。
 さちが丘の日吉神社にある道標はいつものか不明ですが、二俣川から先も大山に向かう道があったことが示されています。

 その先、新編相模国風土記稿の瀬谷村や下草柳村のところにも、厚木に向かう道について書かれていませんが、蓼川村のところに、「厚木道、村内を通す。」と、相州道のことが書かれています。村によっては説明がないことから見ると、街道というより村道をつないだ道のようですが、東海木曽両道中懐宝図鑑に、芝生追分の行き先に大山とともに「あつぎ」とあったりするのを見ると、そこそこの道があって、厚木方面に行く人が利用していたようです。

[桜ケ丘を通る道・相州筋の村道](保土ヶ谷からの青のルート)


 神戸町の明細帳にある相州筋の村道は、今井村境まで伸びていることから、いまの桜ケ丘を通っている道のことと思われます。また、新編武蔵風土記稿の仏向村のところには「一は相州往還と呼ぶ、南の方、下星川より入て十丁ばかりにして都筑郡今井村に入る。道の幅一間余なり」とあり、今井村に入るところからみて、この道のことと思われます。。
 この道は、東海道と分かれ、大蓮寺に沿って坂を登って月見台の交差点までは神戸町の中を通っていき、そこから神戸町と下星川村の境を花見台交番前の交差点まで行き、そこからは神戸町と仏向村の境をゴルフ練習場の手前まで行き、その先は仏向村と今井村の境を通って市沢(市野澤)村に行っています。

 その先、上図の推定原位置1か5の辻で、芝生追分や大門通からの道と合流して厚木に向かう道筋がまず考えられます。(青と緑のルート)
 市沢稲荷の庚申塔は、1830年のもので、大畠さんのページの写真を見ると(部分拡大)、「左り 八王子 あつぎ 道」とあったものに、道の字体が異なった「右り 大山道」と加え、更に左りを右に修正したようにもみえ、元々推定原位置4のところにあって、当初は、左方面の市沢小学校と熊野神社の間の道(緑のルート)を、厚木、八王子方面であると案内していてたものに、その後になって、右方面の市沢交番から推定原位置1への道のほうが、大山や厚木方面に向かう道としてよりよいということになって、大山道が右方向であることを付け加えるとともに、厚木、八王子も右方面であると案内するように変更を加えたのではないかと思えます。
 市沢稲荷の道標の左を右に彫りなおしたということは、わざわざ彫りなおして道の反対側に移設するとは考えにくいことから、左でも右でも厚木方面に行ける場所にあったことになります。
 三反田稲荷にある道標は、推定原位置5のところにあって、厚木からくる旅人に緑のルートを保土ヶ谷道と案内していたと思われます。
 市沢交番そばの道標は1831年のもので、建てたころは市沢交番から神奈川宿方面に向かう道はありませんでした。推定原位置1の場所に元々建てられて、神奈川宿と保土ヶ谷宿の方向を案内していたが、神奈川宿からの相州道の道筋が変わったために、推定原位置1のところから市沢交番のところに移設されたと考えられます。
 迅速地図では、西谷浄水場のあたりから市沢村まで、点線で示される小径で、それもまっすぐでない道しかなかったようですが、明治39年の地図では、二重の点線の道が描かれており、西谷浄水場を造るために、神奈川宿方面からの新たな道を拓いたようで、そのころ移設したのではないでしょうか。

 また、新桜ケ丘第五公園のそばの辻で、市沢方面と別れ、南本宿を通っていく道筋も考えられます。その先、万騎が原団地にある道標に導かれていき、中希望が丘の道標のところを通り、「武相国境の道」に合流して三ツ境で芝生追分からの道に合流するか(水色のルート)、万騎が原団地から善部村経由で阿久和坂上の道標に導かれ、柳明神社に向かった(黄緑のルート)と思われます。

 新編武蔵風土記稿の下星川村のところに「村の坤の方、仏向村及び神戸町の境に一條の往還あり。相州へ行く間道なれば、土人相州道と呼ぶ。道幅は二間余りなり。」とあります。この道は、神戸町との境を、南東から南西へ続いているのですが、下星川村の集落から、この道に出るには、星川杉山神社を通って、西南(坤)の方に行くと、下星川村と仏向村と神戸町の境の花見台交番のところで、この村道に突き当たるので、この道のことが書かれているのだと思われます。この道は、相州筋の村道、相州往還、相州道などと呼ばれていたようです。間道とあるところを見ると、芝生追分からの道が相州に行く本道と思われていたのでしょう。

[大門通からの道・下星川村道](保土ヶ谷からの赤のルート)


 新編武蔵風土記稿の下星川村のところに、村の中央を通り、星川杉山神社に参拝する人などが通っていた道が書かれていなかったのはなぜでしょうか。普段利用している普通の道で特記するような往還とは思わなかったのかもしれません。迅速地図にも、しっかりとした道が「至二俣川」と書かれ、江戸時代から二俣川まで通ずる道があり、相州へ向かう道として利用されていたと思われます。迅速地図は明治25年に測量され、大日本ビールや富士紡績の工場、西谷浄水場ができるより10年以上前のもので、大門通から和田町までの道筋は、江戸時代のままであったと思われます。
 「横浜の古道」では、相州道としてこの道を紹介しています。道筋からみて、江戸時代から相州へ向かう人も利用していたと思われ、これはこれで間違いではないと思いますが、芝生追分からの道を相州道として紹介するほうがより適切であったと思われます。

[まとめ]

(1)相州道とは相模の国に向かう道という意味の一般名称であり、いく筋もあったと思われる。
(2)芝生追分からの道が神奈川宿からの相州道として、また桜ケ丘を通る道が保土ヶ谷宿からの相州道として機能していたと思われる。大門通からの道も、江戸後期には相州道として相模の国に向かう道として機能していたと思われ、これらの三つの道は、いずれも相州道であり、厚木方面に向かう人が利用していた。

大山道の道筋・大山近道とは

 1811年に芝生追分に大山近道の道標ができると、追分の道標をみた大山参りの旅人は、近道につられて、大山を目指し、和田村に向かった人も多くなったと思われます。

 和田杉山神社にある道標を兼ねた庚申塔は天明3年(1783)のもので、近道道標ができるまえから大山道を案内しているもので、芝生追分から来た旅人はこれを見て和田橋を渡り、大門通からの道と合流し、坂本村を過ぎて大山のある西に向かい、三反田村の手前の上図の推定原位置1の辻で、保土ヶ谷から桜ケ丘、市沢経由の道と合流し、三反田村を過ぎて行くのが道なりのルートで、普通の旅人であればこのように行ったと思われます。
 そして、二俣川の手前の、上図の推定原位置2の辻にあったと思われる本村神明社の文化13年の道標により、大山・厚木方面に導かれていき、さらに先の推定原位置3の旧藤沢街道と厚木道の交差点には、すぐ南の社殿のない秋葉神社にある庚申塔があって、厚木方面に案内されていきます。大和市の山神社にある西大山みちとある庚申供養塔がありますが、この神社は、かつて下草柳の六軒、大下、中村の三集落にあったとのことで、下草柳のどこかに、この庚申塔があって、西に案内されて大山に向かったのでしょう。さらに、綾瀬市まで行くと、寺尾本町の道標によって厚木に旅人は向かったと思います。

 大畠さんのホームページ4によると、磯貝長吉氏は、大山道を、「和田-坂本-市沢-二俣川-岡津」のルート(薄茶色のルート)との考えを示しているけど、芝生追分にあったとされる道標には大山近道とあり、東海道を不動坂まで行き、柏尾通り大山道を行くよりも遠回りになるので、大畠さんは市沢や川上町にある道標も考慮して、大山道を「追分-和田橋-仏向-今井-(ゴルフ場付近)-川上村(東戸塚西口)-岡津」というルートと推定されています。
 しかし、この大畠さんの推定コースでも、まっすぐな道があったわけでなく、特に東戸塚駅の手前から岡津にかけては曲がりくねった細道が続き、遠回りになっていますし、とても街道と呼べるような道ではないと思われ、到底賛同できる説ではありません。
 また、日吉神社、中希望が丘、阿久和坂上にある道標は、大山に向かう旅人が、磯貝さんや大畠さんが主張する岡津方面ではなく、厚木方面に向かったことを示していると思います。
 市沢稲荷の庚申塔は、上述したように、厚木と同じ方向を大山と案内していたと思われるし、また、川上町の熊野神社にある地神塔は、柏尾通り大山道を目指していたが、境木地蔵のところで直進し、相武国境の道に誤って入り込み、東戸塚駅東口を通って川上町に来る迷った旅人がそこそこあったため、品濃経由で東海道に戻るように案内していたのではないかとも考えられます。
 川上町の熊野神社の前の道は、南本宿市民の森の上田神社の前を通って二俣川に向かっています。上田神社にある道標には、「左大山みち」「右戸塚みち」とあり、川上町を通って柏尾通り大山道に向かう道を案内するのではなく、ここまで北上した旅人には二俣川方面を大山みちと案内していたようです。

 西川島町にも天明6年(1786)の道標があります。和田町より八王子道をさらに先まで行き、大山に向かった旅人もあったのでしょうか。

 結局私は、上の地図の芝生追分からの赤のルートを程ヶ谷通り大山道と考え、天王町駅からスタートし、橘樹神社の神田明神をお参いりしてから芝生追分に行き、そこから海老名まで歩いてみました。

[近道の謎]


 岡津で柏尾通り大山道に合流するのでは、柏尾通り大山道より近道になることはありません。また、芝生追分から、東海道と柏尾通り大山道を通って、矢倉沢往還と合流する下糟屋まで、33Kmほどですが、芝生追分で別れ、相州道を海老名へ進み、海老名から矢倉沢往還を通り下糟屋までは、35Km近くあります。こちらも大山へ行く近道にはなりません。大山近道の標識に導かれた多くの旅人は、騙されて遠道を歩かされたことになります。
 芝生追分から厚木に向かう道を近道といえる説を、私なりに考えてみました。

(説1:和田橋までの近道)
 大門通りから下星川村を通っていく、「横浜の古道」に示されている相州道が、大山に行くのにも使われていたとすると、和田橋までは芝生追分で東海道を分かれて行く方が、それより近道になります。
 この説の欠点としては、大山に行くメインルートは柏尾通り大山道であり、下星川村道より近道になるという程度のことで、道標に近道と刻むかが疑問であることです。

(説2:矢倉沢往還=大山近道)
 分間江戸大絵図には、矢倉沢往還のことを相州大山近道としています。江戸から東海道経由で大山に行くよりも近道になるからでしょう。芝生追分にあったとされる道標の大山近道は矢倉沢往還のことを意味しているとも考えられ、追分から矢倉沢往還の通っている海老名に行くことを案内しているとも考えられます。
 こちらの説の欠点は、矢倉沢往還のことを大山近道と一般的に呼んでいたか疑問のところです。分間江戸大絵図に書かれていることしか確認できていません。

(説3:誰かの思惑、陰謀、錯誤)
 道中奉行が、柏尾通り大山道の混雑を減らそうとして、大山近道という案内を追分に建てたとか、例えば、二俣川の茶屋の主人が、二俣川をもっとたくさんの旅人が通るように、大山近道という案内を追分に建てたとか、厚木経由の方が近道と勘違いしていた人が建てたなんていうのが想像されますが・・・・・。

 いずれの説も問題はありそうで、どこより近道か謎です。

[近道がありました]


 泉区のホームページで紹介されている年貢の道(神奈川道)を歩いたとき、柳明神社の裏の道標にある大山道の案内をみて、かまくらみち(上の道)を柏尾通り大山道まで行くのでは、遠回りになるなと思っていたのですが、中原街道に出て、用田で柏尾通り大山道と合流すれば近道になるのではと思いつきました(黄緑-紫のルート)。阿久和坂上、柳明神の道標のほかに、中原街道沿いにも大山を案内する道標も残っています。そうすると柏尾通り大山道経由で、芝生から用田までは23.6kmですが、このルートでは23.1km((黄緑-紫のルート)であり、近道になります。これが大山近道でしょうか。
 また、二俣川から厚木に向かって相州道を行き、二ツ橋で中原街道で合流してから、中原街道経由で用田まで行くと22.7km(紫のルート)で、こちらも大山近道の候補になります。日吉神社の庚申塔道標がこれらの道の分かれ道に元々あったとすると、二ツ橋経由の方を大山道と案内していたことになるのと、柳明神社経由では柳明神から中原街道に出るまでが、わかりづらい道になることから、二ツ橋・中原街道経由で大山を目指した旅人が多かったものと思われます。

 海老名市の上河内に、大山道の道標があり、また、新編相模国風土記稿の上河内村のところに「村内厚木道大山道二條を通ず」とあります。中原街道のサイホウ塚から用田に出て、柏尾通り大山道経由で下糟屋までは11.0kmですが、サイホウ塚から分かれて、上河内村を通り、岡田の渡しを渡って、矢倉沢往還に合流すれば、下糟屋まで10.3km(赤紫のルート)になり、さらに近道になります。

[程ヶ谷通り大山道]

  とりあえずの結論として、程ヶ谷通り大山道は、柏尾通り大山道よりも1.6km近道となる次のルートとしておきます。

  芝生追分-和田町-坂本町-三反田町-二俣川-三ツ境-二ツ橋-(中原街道)-サイホウ塚-上河内-岡田の渡し-(矢倉沢往還)-大山

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