御尊櫃御成道

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 「台徳院殿御実紀」に、家康の神柩を遷霊したときのことが記されています。台徳院殿御実紀をテキスト化されているサイトがありましたのでコピペさせていただきます。
 まずは、これを頼りにルートを想定しました。

台徳院殿御実紀より
○十五日かねては三年が間。久能山に神靈を安置し。宰相賴宣卿の祭祀を受給ひ。その後日光山に御垂跡あるべしとの御あらましなりしかど。三年を待せらるべきにあらずと思召旨有て。賴宣卿へ議せられ。日光山神廟經營をいそがせ給ひしかば。この程はや成功せしにより。けふ神柩を發行せらるべきに定まる。大僧正天海は先達て登山し。其他山門の碩學。東關の僧綱凡僧悉くまいりあつまる。寅刻本多上野介正純。土井大炊頭利勝。松平右衛門大夫正綱。板倉內膳正重昌。秋元但馬守泰朝等三百餘騎。雜兵一千人を具して御迎に參る。すべて大織冠鎌足公和州多武峰に改葬の先蹤によることゝて。大僧正天海みづから鋤鍬とりて其事を行ふ。さて上野介正純。右衛門大夫正綱。內膳正重昌。但馬守泰朝。永井右近大夫直勝。榊原內記照久。幷もとの駿府小十人組の番士等供奉す。大森半七郞好長も此列に加はる。御所御名代は大炊頭利勝。尾張宰相義直卿の名代成瀨隼人正正成。駿河宰相賴宣卿の名代安藤帶刀直次。水戶少將賴房朝臣の名代中山備前守信吉。是らをはじめ。騎馬の行粧は唐鞍うち。馬副の布衣侍雜色走衆にいたるまで。みな綺羅をかざり花を折たり。今夜の御泊は富士山の麓善德寺なり。こゝにて初夜の御法事布施。しなじな引わたさる。後夜は人しづまりて。殊更彌生望の月圓滿の光のどかにて。人心すみわたりしとぞ。烏丸大納言光廣卿もこのとき供奉なり。(創業記。東武實錄。紀年錄。續年錄。紀行。寬永系圖。)
○十六日靈柩吉原より浮島が原をへて。三島にとまらせ給ふ。こよひの御法事よべにことをそへて。うるはしかりしとぞ。此日林道春信勝京より江戶に參着す。使番川口長三郞近次宇治採茶使にさゝれ。暇給ふ。(紀行。御年譜。國師日記。)
○十七日けふも靈柩は三島にとまらせ給ふ。江戶にては三緣山の靈廟に御詣あり。此御道にて大橋長右衞門重保。(後入道して龍慶といふ。)阿部備中守正次につきて。訴狀をさゝげて申けるは。慶長十九年大坂の御軍いまだ起らざる前に。秀賴公讒人の言を用ひ。片桐市正且元叛逆の企なすとて。旣に誅せられんとありし時。且元も身のあやまりなき旨陳謝せんがため。居邸に立籠る。其時重保も且元とは年頃の舊好わすれがたく。且元が弟主膳正貞隆幷畠山民部政信。毛利兵橘重次。矢野十左衞門某。西川八右衞門某。永井助十郞某。伊東猪左衞門某等と同じく。且元が邸にまかり。これをたすけて防戰せんとせしに。七組番頭等がはからひにて。秀賴公疑を散ぜられ。且元罪を免かるゝに及び。重保等も危難を免かる。其後大斾御進發ありしかば。重保等も且元兄弟にしたがひ。備前島の陣に加はり。去年の夏大坂平均の後。且元兄弟はいふまでもなし。かの畠山。毛利。矢部。西川。伊東等もみな拔擢の恩に浴す。ひとり重保は備前島陣中に深手負しかば。其瘢治療するとて彼等にをくれ。いまにいたり沈淪するよしを訴ふ。其事ことはりと聞召て。この年重保召出され采邑五百石下され。善書の聞えあれは右筆を命ぜらる。この日遠州光明寺御印書を賜ふ。其文にいふ。虛空藏領遠江國豐田郡二俣山東村一圓寄附せらるゝ事。慶長八年九月廿五日先判の旨。永く相違あるべからずとなり。又宗對馬守義成從四位下侍從に叙任す。(御年譜。東武實錄。續年錄。家譜。貞享書上。武家補任。藩翰譜備考。)
○十八日靈柩箱根山をこえて。小田原につかせたまふ。今宵もやんごとなき御法事ども數をつくされたり。江戶にては阿部左馬助忠吉大番頭になり。永井善左衞門安盛鑓奉行になる。(紀行。續年錄。)
○十九日靈柩けふも小田原にとまらせ給ふ。(御年譜。東武實錄。)
○廿日小餘綾の磯を過て。靈柩を中原の御離殿にとゞめらる。(紀行。)
○廿一日武州府中の御殿につかせまします。(東武實錄。紀行。)
○廿二日けふも府中にとまらせ給ひ。さまざまの御法會行はる。この日江戶にては城外に御馬を試給ふ。其時僧良賢訴狀をさゝげて。高野山の事をうたふ。(紀行。國師日記。)
○廿三日靈柩仙波につかせ給ひ。大堂に入らせらる。(御年譜。創業記。)
○廿四日江戶にては酒井雅樂頭忠世。安藤對馬守重信。町奉行島田兵四郞利正。米津勘兵衞田政等。金地院崇傳とおなじく藤堂和泉守高虎が邸に會集し。高野僧を召て尋問す。一昨日僧賢良が訴狀さゝげしことによりてなり。(國師日記。)
○廿五日仙波にては川越の城主酒井備後守忠利もよふしにて。今宵衆僧を請じ論義あり。大僧正天海證義つかふまつる。そもそもこの仙波といふは。仙保仙人開闢ありし地とて。そののち慈覺大師中興。尊海僧正搆造して。勅額數代の靈地なれば。一生入妙覺といへる論題を出し。問答各懸河の辯を競ひたり。法席終りて。施物は備後守忠利より靑蚨を山のことく臺にのせて纏頭す。所は名におふみよしのゝ里。折から田のむの鴈も霞めるそらによると鳴聲ふかゝりし夜の景色。法席に列る緇素袖しぼらぬはなかりしとぞ。(東武實錄。紀行。)
○廿六日仙波には猶御滯座にて終日御法會どもいとことごとし。今宵は大僧正天海みづから沙汰として。衆僧を請じ法華讀誦す。(紀行。東武實錄。續年錄。)
○廿七日靈柩仙波を出まし。忍につかせ給ふ。今宵曼陀羅供行はる。(御年譜。東武實錄。紀年錄。)
○廿八日靈柩忍を出まし。利根川にて松平式部大輔忠次御船よそひし。渡瀨川にては本多上野介正純御船奉り。館林に御中やどり有て。佐野の春岡といふ寺に入奉る。(今摠宗寺といふ寺なりとぞ。)上野介正純あらかじめ新殿をいとなみ。こゝに蹕を駐たまふ。この日江城にては鍋島信濃守勝茂四子翁助初見す。(東武實錄。紀年錄。日光藏書。寬永系圖。)
○廿九日靈柩佐野を出まし。輿窪富田櫔木などいへるあたり過させたまひ。こよひは鹿沼の藥王寺を御旅所とせらる。(一說今の今宮權現の付地といふ。)この所に四月三日までおはしましぬ。(紀行。東武實錄。日光藏書。)
◎この月日光山御本社。御本地。堂。廻廊。御供所。御廐等造畢す。江城には紅葉山にも御宮を經營ありて。山王權現日吉權現と一社に配祀し給ふべしと令せらる。又京にては女院御所造營あり。五味金右衛門豐直これを奉行す。土井甚太郞正次仰によりて元服し。左兵衛と改め左文字の御刀を給ふ。(東武實錄。續年錄。寬政重修譜。)
○四月朔日靈柩猶鹿沼にまします。如在の奠日ごとにかはらず。六時の御法會又おなじ。(紀行。)
○三日尾張宰相義直卿。駿河宰相賴宣卿。水戶少將賴房朝臣。ともに江戶に參着せらる。金地院崇傳等御迎にまいる。(國師日記。)
○四日未刻に靈柩日光山の座禪院に入奉る。


 日光山紀行というのを見つけました。こちらも参考にしていきます。

元和3年3月15日
 15日は、吉原までです。最初の根古屋集落のところは、もう一本山側にある道も明治にはある道で、こちらを通ったのかもしれません。
 清水からは、東海道を行ったと推定しています。
 泊まったとされる善德寺は、善得寺御殿だったと思われます。富士市今泉の郷土史に詳しい方のブログによると、今泉には御殿のほかに、お寺の善得寺、善得寺城、酢を家康に献上して、善得寺酢と名づけられたという東泉院があったようです。善得寺御殿は、御守殿稲荷神社のあたりにあったようです。

元和3年3月16日
 16日は、浮島が原のそばを通っている東海道で三島まで行ったようです。三島には、三島御殿があったのですが、徳川家光が元和九年(1623)に築造させたと三島市のHPにあり、遷霊のときはなかったようです。三島宿には、世古本陣と樋口本陣の本陣が2軒存在していたそうで、どちらかの本陣で泊まったと思われます。世古本陣には、慶長4年(1599年)58歳の家康が、ここで阿万の方(当時おきく20歳)を見初めたという逸話があるそうで、こちらかもしれません。

元和3年3月18日
 18日に三島を出発し、東海道で箱根を越えて小田原まで行き、新編相模國風土記稿によると小田原城に泊まったようです。

新編相模國風土記稿足柄下郡早川庄小田原城の項
三年二月、神柩久能山より日光山へ遷御の時、十八日當城へ御帯留あり、廿日中原に移らせ給ふ、

元和3年3月20日
 20日に小田原を出発して、小餘綾の磯を通って中原御殿まで。小餘綾磯は、大磯のあたりの海岸のようであることから、大磯まで東海道を行き、中原御殿に行ったのかと思っていました。日光山紀行にも、「小餘綾磯を通り給ふに、蒼海遥に見渡されて、巌にかかる浪は雪かとまがひ、渚に靡く雲は花かとのみぞ見えける。磯あさりする蜑乙女も、玉簾のこかめを空しくして、此神輿を拝み奉る。」とあります。
 一方、新編相模國風土記稿によると、北田村に一里塚があったというのと、小田原あたりまでの海岸を小餘綾の磯と呼ぶこともあったようで、羽根尾から内陸を通っていったと想定しました。北田の一里塚は遷御のときに築かれた一里塚と思います。また、新編相模國風土記稿の南原村のところにも、鎌倉古街道を通ったとの記述があり、この道の続きは、徳延村、松延村、公所村のところに、鎌倉古道、鎌倉往繩と記述されている道と思われ、この道を通ったのではないかと思われます。
 北田の一里塚から公所村までの道筋は、井ノ口から小田原道、波多野道を通っていくことにしましたが、一里塚の少し先の一本松峠で右に下り、土屋村を座禅川に沿って波多野道に合流する道などを通った可能性もあります。

新編相模國風土記稿淘綾郡圖説
〇海 郡南にあり、東方、大住郡堺より、西方、足柄下郡堺迄、縁海長凡三里餘、・・・凡此海岸、大磯小磯等の名義の如く、巖石多く、浪荒くして、船がかりあしく、潮干なし、汀砂色麗しく鮮明にして愛すべく、風光他に殊なり、されば古くより名苑に入て、【萬葉集】に、餘呂伎能波末と見え、又世々の歌集に、小餘呂伎の磯ともある、即此海邊を云へるなり、今も其所に因て、小餘綾の浦、或は小餘綾の磯、淘綾の浦など呼べり(按ずるに、鎌倉腰越村海岸、八王子社地をも、古由留義と呼り、【鎌倉志】にも、彼地と定め、當國名所、小余呂伎磯も是邊なり、或は大磯の濱をも云と記すれど、全く當所を得たりとすべしと記せしは、全訛れり、)然して宗祗が【名所方角抄】には、大磯小磯の海濱なる由、定め云へり、(曰大磯小磯とて、中間五六町あり、南は汀なり、北は野なり、富士は乾の方に見えたり、よろぎの濱、こよろぎの磯などヽ云名所あり、但小呂與伎の磯は、大磯の邊を云なり云々、)中古此海道を經歴せし人々も、多くは大磯宿の海邊をのみ然稱せり、
新編相模國風土記稿足柄下郡圖説
小淘綾(小餘路義)小田原宿のみの唱なり
新編相模國風土記稿足柄下郡圖説
〇海 ・・・又小田原浦の一名を、小淘綾濱といへり、小余呂伎は淘綾郡の屬なるを、當所の濱名となすこと、當らざるに似たり、
新編相模國風土記稿足柄下郡早川庄小田原城
當城の地、往古は小淘綾山(古與呂幾也萬)松平(末津能太比良)、其後緑尾山(美度里遠夜末)田城(太志路)と唱へしと云、(門川村民蔵所の古記に見ゆ、按ずるに今も淘綾郡より此地の海濱を、すべて小餘綾磯と呼り、小田原の唱も小由留木の文字を、艸躰に連書せしを誤りしより起れりと云説あり、されど相模國古風土記残本に小田原の地名見えたれば和銅以前の事ならん、もっとも信用すべからず)築城の始を詳にせず、
新編相模國風土記稿足柄上郡大井庄北田村
南方より北に亘りて大山道係れり、(幅二間)〇御塔坂 大山道にあり(小坂なり)〇一里塚 大山道にあり、双堠なり、(一は高四尺、一高一尺五寸)塚上に榎樹あり、
新編相模國風土記稿大住郡糟屋庄南原村
村西より東に通じて中原道、幅一丈、下同、係れり、此道の内、金目川の辺に至り、幅一間許に狭まりし所、鎌倉古街道なりと云、東照宮駿府より中原御殿へ渡御の時は、此道御通行なりしと云伝ふ、又南方より入一條は、十日市場(曾谷村小名)道なり、村内にて前路に合し、又別れて乾(北西)の方に達す、
新編相模國風土記稿大住郡糟屋庄徳延村
北方に波多野道係れり(幅八尺)、鎌倉古道なりと云伝ふ
新編相模國風土記稿大住郡糟屋庄松延村
村北に小径(鎌倉往繩と唱ふ)在
新編相模國風土記稿大住郡糟屋庄公所村
南北に貫きて、伊勢原道係れり、又東南の間より入る一路を鎌倉往繩と唱ふ、(共に幅九尺)
新編相模國風土記稿大住郡糟屋庄中原上宿下宿
宿内に往還三條あり、大山道幅二間、下同、大磯道、十日市場(曾谷村の小名)道なり、又古街道幅二間、と称する一條あり、江戸往還にして、爰に一里塚高八尺許、相対してあり、一里塚より大磯宿へ一里、新土村境へ五町、・・〇御殿跡・・元和三年二月、日光山へ御改葬の時、神柩当所に宿せらる(【元和日記】曰、二月15日、大権現を駿州久能山より、野州日光山へ改葬る云々、二十日、霊柩中原に至る、二十一日、霊柩武州府中に至る)

元和3年3月21日
 21日は中原御殿から府中御殿までです。一里塚やその跡が多くあるので、道筋は比較的はっきりしています。
 中原御殿を出ると、すぐ中原上町の一里塚があり、その次は四ノ宮村の一里塚ですが、田村の一里塚と云われています。いずれも新編相模國風土記稿に説明があり、塚は残っていませんが、標柱と碑があります。その次は戸田村あたりにあったようですが、新編相模國風土記稿の四ノ宮村のところに失われていることが書かれていて、あった場所は不明です。江戸時代でも、御尊櫃御成道の一里塚が保存されていたわけでもないようです。
 戸田村の先の一里塚まではまったく不明です。距離から言えば厚木の手前と思われます。
 厚木で相模川を渡り、上鄕村の外記宿で、神柩跓蹕したそうです。跓蹕は、先払いして立ち寄ることだそうで、休憩したということでしょうか。また、新編相模國風土記稿の四ツ谷村のところによると、遷霊のころは、外記宿を道は通っていたようですが、天明の洪水で失われ、東のほうに道が付け替えられたようで、有鹿神社例大祭の神輿渡の御順路を通るようにしました。
 新編相模國風土記稿の高座郡の正保改定圖には、鳩川を渡ってすぐのところに一里塚のしるしがあります。天明以前のルートとすると、天明の洪水で失われたあたりにあったのかもしれません。また、この図には、新戸村のところにも一里塚のしるしがあります。
 新編相模國風土記稿によると、途中、座間宿村の宗仲寺で休んだようです。
 新戸の一里塚は新編相模國風土記稿の新戸村と磯部村、下溝の一里塚は下溝村のところに書かれています。いずれも塚は残ってなく、新戸の一里塚は碑が建っていますが、下溝の一里塚はコンビニの駐車場になっています。
 武蔵の国に入り、木曽一里塚、小野路一里塚、瓜生一里塚と続くのですが、新編武蔵風土記稿には一里塚についての記載は、あまりないようです。
 木曽の一里塚は、西側の塚だけ残っています。すぐ先の福昌寺に休息所となったという言い伝えがあるようで、府中市郷土の森博物館だよりによると木曽で休んだ記録もあるようです。
 野津田公園オフィシャルサイトによると、小野路の一里塚も片側だけが残っていたが、復元され、両側となったそうです。
 瓜生の一里塚は残っていませんが、70m離れた遊歩道に碑があります。
 新編武蔵風土記稿の本町のところに、一里塚の記述がありますが、初期の甲州街道のもののようです。分梅町の字名に一里塚があったらしいのですが、初期の甲州街道の本宿一里塚がある日新町1丁目のNEC府中事業場の一里塚のあたりの小字のようで、瓜生の次の一里塚は不明です。

新編相模國風土記稿大住郡八幡庄四ノ宮村
八王子道係る、(幅二間、)此道の左右に一里塚、(各高四尺五寸、上は中原上宿に塚あり、下は戸田村邊にありしならん、今廃して詳ならず、)あり
新編相模國風土記稿高座郡渋谷庄上鄕村
街道二、東西に通ずるもの矢倉澤道なり、南北に通ずるは八王子道なり(道幅各三間、)・・△外記宿(飛地の小名なり、久能山より日光山への御遷座の時、神柩跓蹕の所と云、)
新編相模國風土記稿高座郡渋谷庄座間宿村
往還村の西寄を通ず(東海道平塚宿より武州八王子及府中への往來なり幅六間餘)元和三年神柩日光山への御遷座の時、三月廿一日大住郡中原御殿より當所御經歷あり、此時武州木曾村迄役夫を出せしより而來人馬の定額を立(人馬三人馬一疋、)公私の行李を繼送れり(其繼立の村々は平塚道は愛甲郡厚木村へ二里、八王子道は北方當麻村へ一里、府中道は東北武州多磨郡木曾村へ二里九町、土人の傳に往昔伊勢の驛ありし頃は、往還西の方相模川の對岸愛甲郡依知村の邊より當所に係れりと云ふ、又村の中程に鎌倉古道と唱ふるあり、入谷村星谷寺邊より新戸村に通ず、)・・〇宗仲寺・・元和三年神柩日光山遷御の時三月二十一日、中原御宿殿を發せられ、境内御殿に御休輿あり、
新編相模國風土記稿高座郡渋谷庄四ツ谷村
平塚宿より八王子への往來あり、南北に貫く、(道幅三間、古は上鄕村外記宿より村内に係りしに、天明年中相模川岸崩壊し以來、下今泉村より村内に係れり)
新編相模國風土記稿高座郡渋谷庄新戸村
村の東に八王子道係る(幅二間半此)道より東に分るゝ一條は、武州府中への道なり、・・○塚 府中道の左右に相對す(高一丈、頂に榎樹ありしが寛政中枯槁す、元和三年神柩通御の時築立ありし一里塚なりと傳ふ、則爰より東北の方、下溝村に至て一里、其所に又塚あり、)
新編相模國風土記稿高座郡渋谷庄磯部村
八王子道南北に貫く(道幅二間)又府中道係れり(幅九尺、神柩日光遷御の時の御道なりと云、一里塚今に存せり、)
新編相模國風土記稿高座郡渋谷庄下溝村
八王子道、南北に貫けり、・・○二ッ塚 一里塚なり(高さ九尺)冢上に榎樹あり、元和三年神柩日光遷御の御路なれば、築きし所なりと云、
新編武蔵風土記稿多摩郡府中領本町
この地は鎌倉執権時代の奥羽街道にして関戸よりこの宿に至り戀ヶ窪村を過て久米川に達せり、又甲州古街道といへる一路あり、常久村の南より六社宮の大門中間を過てこの宿に至り日野宿の東小名満願寺と云所に出て往来せり、今なを宿の南の田間に其頃の一里塚なりと云あり、 小名 分梅(村南をいふ古戦場なり下の條に見へり)

新編武蔵風土記稿多摩郡六所社領
六所社・・・元和三年東照宮の尊骸日光山へ遷御の時この地に一日御逗留あり、因て社地に神霊を崇祀したてまつる、

元和3年3月23日
 23日に府中御殿を出発し、川越の仙波までです。
 国分寺駅の南に、一里塚というバス停があるのを見つけ調べていると、国分寺街道及び国3・4・11号線周辺まちづくり計画の2章から、国分寺街道と元町通りの交差点のすぐ北に、一里塚があったことが「国分寺村古絵図」に描かれていることがわかりました。
 御尊櫃御成道の一里塚と思われ、国分寺街道を通っていったと推定しました。
 道は、連雀通りに入り、府中街道に合流し、所沢に向かいます。
 小平図書館のこどもきょうどしりょうに、二ツ塚の説明があります。旅人に道を教えた「鎌倉街道十三塚」の一部ともいわれているとありますが、御尊櫃御成道の一里塚と思われます。北へ一里行いった南天王森(今の東村山市本町1丁目の平和塔公園内)にも一里塚があることが書かれていますが、公園にある境塚は、大きくて一里塚と思えません。そばに小塚というのがあって、今は失われているそうで、こちらが一里塚ではないかと思われます。
 東村山から所沢まで、迅速地図から道を想定しましたが、鎌倉街道上の道が御尊櫃御成道であったのかもしれません。
 新編武蔵風土記稿の所沢村のところには、2つの一里塚のことが書かれています。天保国絵図では、田無から所沢を通って秩父へ行く道の所沢の手前に一里塚が描かれていますが、もう一つは御尊櫃御成道の一里塚と思われますが場所がまったく不明です。
 所沢の先で、日光山紀行に、「堀かねの井は右に見て通る」とあります。所沢川越街道を通ったと思っていたのですが、堀兼の井戸を通るように変更しました。井戸までは、堀兼道と呼ばれている鎌倉街道の枝道のようですが、井戸から川越までの道筋は不明です。迅速地図から適当に選んでいます。なお、「ほりかねの井」と称する井戸跡は各地に残っているそうで、所沢川越街道沿いに、別の井戸があった可能性もあります。
 川越では、仙波の喜多院に泊まったとされているようです。

新編武蔵風土記稿入間郡山口領所澤村
塚五ヶ所(・・・一里塚二つあり)

元和3年3月27日
 27日になって、仙波を出発して、行田の忍城まで行きました。
 新編武蔵風土記稿の東松山町のところに、観音寺で休憩したことが書かれていて、川越から東松山に行き、そこか忍城までいったようです。観音寺は、資料によると市野川のそばにあったようで、江戸時代に廃寺になったようです。川越から東松山まで、道沿いにあった一里塚のしるしが、天保国絵図にありますが、現存しているものはないようです。大雑把の位置を示しましたが、不正確です。
 川越から先、千人同心街道でいったと当初は思っていましたが、観音寺は千人同心街道からすこし離れているので、わざわざ寄ったのは疑問に思っていました。ここでは、松山から今泉村を通って鴻巣に行く道があり、中山道に出て箕田の追分から館林街道を通って佐野まで行ったことにしてあります。
 迅速地図を見ると、松山の手前の柏崎から観音寺へ行く道があり、資料には鎌倉道とあります。また、この資料にある室町時代の図には、下沼から観音寺への近道も描かれています。これらの道を神柩が通ったかもしれません。
 箕田の追分の先には下忍の一里塚(埼玉県史蹟名勝天然紀念物調査報告)があり、ここには、館林道のことを「川越忍街道」としていて、この著者は川越から忍まで神柩を運んだ道の一里塚と認識していたようです。
 舘林通見取絵図があり、箕田追分から佐野までの道筋が描かれています。下忍の一里塚のあたりに、「字境塚」、「字神送リ塚」という2つの塚が描かれていますが、一里塚とはされていません。この絵図に描かれている一里塚は、利根川を渡った先の矢島村のところにあるだけです。この一里塚は、「明和町の文化財と歴史(四訂版)」の富士供養塔の話(p.11)のところにも出てきます。 神柩遷霊のときに館林道にも一里塚が築かれたのだと思いますが、神柩が遷霊され、不要となった一里塚は、田畑や宅地のために取り壊されたものが多かったのではないかと、見取絵図から空想しています。
 武蔵国の天保国絵図に、箕田追分から忍城までの間に、下忍の一里塚と思われるものの外に、川面村にも一里塚のしるしがあり、また、下野国の天保国絵図には、渡良瀬川を渡ってすぐのところに、一里塚のしるしが描かれていますが、舘林通見取絵図にも描かれていません。

新編武蔵風土記稿比企郡松山町
観音寺・・・境内に東照宮の御宮あり、こは元和三年三月駿河國久能山より下野國日光山へ御改葬のおりから當寺へ姑く御霊棺を居奉りしゆへ其御跡後へ造立し奉れるなりとされと・・・
新編武蔵風土記稿横見郡下吉見領今泉村
村内に松山より鴻巣への往還繋る。


元和3年3月28日
 28日は、忍城から、館林道を佐野の摠宗寺まで。
 道筋は、五海道其外分間絵図並見取絵図の舘林通見取絵に描かれています。

元和3年3月29日
 29日は、佐野の摠宗寺から、日光例幣使街道を鹿沼の藥王寺まで。下野国の天保国絵図に、日光までの一里塚のしるしがあります。 中山道例幣使道分間延絵図や日光道中壬生通分間延絵図もみて大体の位置を示しましたが、栃木と天明の一里塚は、分間延絵図に描かれていませんでした。

元和3年4月4日
 4月4日に、日光例幣使街道を通って日光山の座禪院に到着。今の輪王寺といわれている。

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