開始日時 | 2018/01/02 06:18:27 | 終了日時 | 2018/01/02 14:16:23 |
水平距離 | 36.92km | 沿面距離 | 37.43km |
経過時間 | 7時間57分56秒 | 移動時間 | 7時間50分31秒 |
全体平均速度 | 4.70km/h | 移動平均速度 | 4.76km/h |
最高速度 | 12.42km/h | 昇降量合計 | 909m |
総上昇量 | 450m | 総下降量 | 459m |
最高高度 | 128m | 最低高度 | 21m |
2018/01/02 06:21:53
今日は大山道府中通りを八王子通りと合流するところまで歩いてみることにし、久々に始発に乗って府中本町の駅に降り立ちました。駅前には広い工事中の更地が広がっています。武蔵国司館跡が
あったところで、その後、徳川家康御殿跡があったそうです。
2018/01/02 06:29:07
大國魂神社にお参りして、神社前の甲州街道のところを今日の出発点にしました。初詣の人がぽつぽついます。
2018/01/02 06:40:59
JRをループ式のこ線橋で越え、歩いていくと清月橋跡に庚申塔がありました。文政五年のものだそうです。
2018/01/02 06:57:49
左手に少し入ったところに分倍河原古戦場碑がありました。鎌倉幕府と新田義貞の戦いで、最終的に新田軍が勝利をおさめたそうです。
2018/01/02 07:06:29
普通、西南西を向いていることが多いそうですが、真西を向いているので西向庚申塔といわれているそうです。線香の灰でいぼが取れたという昔話があるそうです。
2018/01/02 07:27:25
多摩川を渡り、大栗川のたもとまでくると、右手に南無観世音菩薩とある石柱がありました。「右 ふちう道」、「左八おうじ道」とあり、天明3年のものだそうです。江戸名所図会巻之三の「小山田旧関関戸惣図」にこの石柱が描かれているそうです。
2018/01/02 07:30:17
少し行くと、右手にお地蔵さんがあり、関戸古戦場跡の碑がありました。分倍河原で敗れた北条軍がここで新田軍の追撃にあい、敗れて鎌倉に逃げ帰ったそうで、6日後には鎌倉幕府は滅亡したそうです。
2018/01/02 07:32:53
右手に庚申塔が建っていました。寛文十三年のもので、下に三猿が刻まれています。
2018/01/02 07:38:34
右手に熊野神社があり霞ノ関南木戸柵跡の標柱がありました。鎌倉時代に関所があったそうです。そばにはお地蔵さんがあり、周りには庚申塔などが集められています。
2018/01/02 08:00:22
京王と小田急を越えていくと、右手に麦花塚がありました。明治に麦花という歌人が歌碑を建てたそうで、江戸時代のお地蔵さんや庚申塔も建っています。
2018/01/02 08:05:23
徳川家康の遺骸を日光東照宮に移すときに、街道沿いに作られた一里塚がこのあたりにあったそうですが、なぜか70mほどはなれた遊歩道に碑が作られているそうです。
2018/01/02 08:19:29
右手の駐車場の奥にお地蔵さんや庚申塔が並んでいました。一番右の庚申塔は明和6年のもので、右○○田 大山道 左神奈川道とあるそうです。
2018/01/02 08:53:00
小野路の近くまで下ってくると、庚申塔などが並んでいました。右の庚申塔は弘化四年のものだそうです。
2018/01/02 08:55:20
小野路の街並みです。歴史が感じられます。
2018/01/02 09:00:55
宿のはずれに小野神社がありました。ここにあった銅鐘は、文明年間の長享の乱のときにか山内上杉軍によって「陣鐘」として持ち去られ、北条早雲が新井城の三浦道寸を攻めるときにも陣鐘として使用したもので、長谷川長綱が徳川家康より拝領したものと伝えられているそうで、今は、逗子の海宝院という寺に神奈川県指定文化財として保存されているそうです。
2018/01/02 09:03:55
小野路からの向坂の途中にお堂がありました。この坂で家康の遺骸を載せた輿の車軸が破損したそうです。
2018/01/02 09:07:26
野津田公園のところに小野路一里塚がありました。瓜生の一里塚から一里で、こちらは両側ありますが、一方は削り取られていたのを公園整備の時に復元したとのことです。
2018/01/02 09:30:48
下ってくると右手に結地蔵がありました。すぐ近くには乱塔場の説明板があり、扇ケ谷上杉氏と山ノ内上杉氏が埼玉付近で戦ったとき、図師の農民が食料調達を命じられたが死んでしまったので扇ケ谷軍は農民を供養する板碑を置いて行ったのを、 大正時代に発掘調査で55基の板碑が発見されただが現在は行方不明だそうです。
2018/01/02 09:33:48
すぐ先で鶴見川を渡ります。
2018/01/02 09:50:20
区画整理で失われているところを適当に歩いて町田街道に出ました。絹の道歩きで歩いたところです。
2018/01/02 10:02:24
覚円坊の手前で絹の道と分かれてすぐに木曽一里塚跡がありました。現在は西側のものだけが残っています。
2018/01/02 10:09:47
八王子通り歩きの時に神奈川県に入るのに渡った境川を渡ります。町田より下流はジョギングでよく川岸を走ったものでした。
2018/01/02 10:11:12
龍像寺参道の道標と龍像寺坂の標柱がありました。右に行くと龍像寺のようで、大山道は左の坂を登っていきます。
2018/01/02 10:11:56
右に細い道が別れるところに古淵一本松跡の案内板と道祖神と庚申塔の石柱がありました。庚申塔には「右当麻道」「左座間道」とあるそうで、右に行くと当麻山無量光寺のようで、この分かれ道に一本松が立っていたようです。石柱は少し前には東の台地の上にあったそうですが、元の場所に再度移設されたようです。
2018/01/02 10:37:48
小学校の前に道者道の標柱があります。大山道、磯部道、木曽道などと云われているとの説明があります。
2018/01/02 11:03:14
旧道が残っていないなか適当に歩いています。このコンビニのところに下溝の一里塚跡があったそうですが、案内板もなにも示すものはありません。
2018/01/02 11:35:07
「峰の坂(みねのさか)」の意味で、東側に広がる峰へつづいていましたと説明があります。この先で、左に分かれると、座間方面の新戸の一里塚跡に向かいますが、大山道は右の磯部の渡しに向かいます。
2018/01/02 11:47:21
坂を下り、旧道に入り、相模線を越え、八幡神社のそばを下ると左手に地神塔などがありました。
2018/01/02 11:49:46
突き当りの角に、不動明王像、庚申塔、不動尊石塔がならんでいました。不動尊石塔には「東 木曽・南 大山・北 八王子」とあるそうです。
2018/01/02 11:55:27
角に右大山道とどうひょうがありました。右に曲がります。
2018/01/02 12:00:19
川岸に出て、少し下流に磯部の渡しとある新たしい碑がありましたが、今は渡しも橋もなく、大きく迂回しなければなりません。
2018/01/02 12:14:11
迂回する相模川沿いの遊歩道からは大山がよく見えます。
2018/01/02 12:52:58
磯部の渡しの向かいにつきました。こちら側では猿ヶ島の渡しと呼ばれていたようです。
2018/01/02 13:12:17
少し歩いて馬坂を登るところに橋供養塔がありました。円柱のもので明治17年のものとの説明されています。すぐ先には馬坂の標柱があります。
2018/01/02 13:18:04
馬坂を登りきると、すぐ先に不動明王像の載った大山道道標がありました。
2018/01/02 13:25:51
山際神社の参道のところを過ぎると左手にお堂があり青面金剛立像の庚申塔がありました。元禄九年のものだそうです。
2018/01/02 13:27:20
すぐ先の左の角にも庚申塔がありました。こちらは萬延元年のものだそうです。
2018/01/02 13:28:16
すぐ先の右に曲がる角には右大山みちとある道標がありました。右に行きます。
2018/01/02 13:40:43
129号線を渡り、小学校の横を通って中津川の河岸段丘を下ります。逆方向から下ってくる道と合流するところに石仏が彫られた道標がありました。風化で判読できません。この道標までがお穴坂で、合流するのが大坂だそうです。
この先に三田の渡しがあったということのようですが、今はないので県道42号線に迂回して中津川を渡ります。
2018/01/02 13:50:01
中津川を渡ります。
2018/01/02 13:58:10
右手に八幡神社の参道がありました。元禄3年に建立された本殿は覆殿の中にあるそうです。
2018/01/02 13:59:34
広い道に出たところに不動明王像と道標がありました。道標には此方 大山道、此方 あ津木道、此方 いそへ/ ほしのや 道とあるそうです。
2018/01/02 14:13:19
少し歩いて荻野新宿に着きました。今日のゴールの日吉神社に着きました。少し待ってバスで本厚木に出て帰りました。