西国三十三所巡礼道・地図

 坂東三十三所観音巡礼、秩父三十四観音巡礼を終え、百観音巡礼のために残っている西国三十三所巡礼道を調べると、西国古道ウォーキングサポート(以下、西国古道)というサイトがあり、巡礼道のルートを公開されていて、これを利用して歩いてみようかと思いました。
 お大師様の歩いた道を歩こうとする四国遍路とは異なり、西国巡礼は、どこを歩いてもかまわないと思いますが、できるだけ昔の巡礼者が歩いた道を歩いてみたいものです。西国古道の地図を検討していると、昔の巡礼道とは思われないところも含まれているようなので、西国古道のルートを手直しした下のマップを作成しました。また、歩き始めて間違っていたり、歩けなくなっていたりするところを随時修正しています。

 巡礼道を検討するのに、主に江戸時代の書物、秩父坂東西国順礼行程記(以下、行程記)西国巡礼道中細見大全(以下、細見大全)目次)、西国順礼細見之絵図(以下、細見絵図)と、図書館で借りた森沢義信著「西国三十三所道中案内地図(上下)」を参考にしています。
 また、古い道標について紹介されているサイト、摂津の国の道標(阪神間の道標)、的形道標クラブ - 旧街道に残る道標 -播磨の道標全1470個所 いしぶみマップ - 京都市オープンデータ x egmapjs奈良県の道標集めの情報も、ありがたく利用させていただきました。

 江戸時代の書物では、大雑把な道筋は分かるのですが、道筋を特定するには至りません。なるべく古く、詳細な地図が必要になります。今昔マップでは、京阪神地区、和歌山、姫路の明治の地図が見ることができます。また、スタンフォード大学のサイトでも、大正・昭和初期の5万図2万5千図を見ることができます。もう少し新しい終戦前後の5万図は、ひなたGISの古地図フォルダ-戦前戦後地図フォルダで見ることができます。国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで、明治の地図が見れるのですが、解像度が低く、手間をかけて閲覧するなどしなければなりません。江戸期の伊能図があり、主要な街道が描かれていますが、奈良街道、三田から清水寺・一条寺を経て姫路まで、播但道なども描かれ参考になります。これらの地図と、古い道標などの情報をもとに想像力を駆使して、昔の巡礼道と思われるところを定めていますが、誤っていることも多いと思いますので、それほど信用せずにご覧ください。
 また、歩くために作成したもので、巡礼道が失われているときは、なるべく近くの歩ける道を選んでいます。

-簡単な解説-

[第二番 紀三井山 金剛宝寺まで]
 江戸時代の案内や森沢さんの本では、熊野本宮から赤木越のルートを、また高原から田辺にかけては芝-潮見峠-上三栖を通るルードだったようで、和歌山県公式観光サイトにある地図を参考にして、赤木越えや潮見峠越えを加えてあります。

[第二番 紀三井山 金剛宝寺から第三番 風猛山 粉河寺]
 細見大全には、みかつら(三葛)村から少し行き、右の細道を一里半行き、日前宮の境内を通り抜けて、一里半で、八軒家からの本道と、ゆり(圦)村で合流するようなことが書かれているようです。
 これを頼りに今昔マップの明治43年測量の和歌山の地図からルートを想定しました。また、和歌山市地域歴史マップ巡礼道の道標にある道標からは別の巡礼道もあったようで、こちらのルートも示してあります。用水路沿いの細道のところもありますが、多分歩けると思います。
 行程記では、和歌山まで舟で行き、八軒家を通るルートとなっていますし、細見大全にも和歌山の名所が説明されています。すぐ粉河寺に向かわないで、和歌山に寄ってから、和歌山街道(大和街道とも呼ばれているようです)で八軒家を通っていった巡礼者も多かったと思います。
 紀伊長田駅のそばに「こかわ寺ぬけみち」とある道標があり、細見大全にも、長田観音の境内からの抜け道があることが書かれています。今昔マップを見ながら抜け道も示しましたが、境内からの道は今はないようで、手前から行くようにしています。また、途中、人が通れる細道が残っていると思うのですが、地理院地図にも道がなく、グーグルマップでも道が確認できないところがあり、ルート通りには通れないかもしれません。

[第四番 槇尾山 施福寺から第五番 紫雲山 葛井寺]
 西国古道では、滝畑ダムに出て、河内長野に入り川を越え、滝谷不動駅で東高野街道に合流するコースとなっていますが、このコースは、江戸時代の案内にはありません。スタンフォード大の2万5千図を見ると、滝畑ダムのあたりの西條川(石川)の両岸が切り立っていて、通行困難のため、巡礼者は南面利から金剛寺を通っていたと思います。
 大坂廻りと東国の巡礼者という資料がありました。こちらでも天野の金剛寺を経由するルートが示されています。この資料では、金剛寺から先、原町で、西高野街道を横切るルートが示され、書かれている道標の位置をグーグルストリートで想定して上のマップに示してあります。森沢さんの本や、ぶらりあるきには、金剛寺の先で左に入って尾根を行く道を巡礼道としていて、資料にある安政4年の道標や宝暦12年の地蔵道標の場所を通っていません。ルートは道標を通るようにしました。なお、道標を通る道は、路肩もなく、車の危険が大きいことを考えると、ぶらりあるきのように、天野公民館の前から天野小学校のそばを通り、広野からも、森沢さんの本のように、池阪墓地を通っていくルートが良いのかもしれません。資料によると、水落に、「すぐ大むね山(大峰山?),左藤井寺」「右あまの,まき尾道」と二面に刻まれた自然石の道標あるそうで、天野からの巡礼道は、国道から坂を下ってきて、道標のある辻でまっすぐ喜多平野地蔵堂で高野街道と合流して大峰山に向かう道とは分かれ、左の上原町、原町を通る道であることを示しているようです。この辻には、「右ふぢい寺」「左さかい」と刻まれた道標もあり、こちらは原町経由ではなく、喜多平野地蔵堂から河内長野経由で葛井寺に向かう道を案内しているようです。
 塚穴古墳から先の道も悩ましいですが、河州錦部郡西代村絵図には、天野山道・巡礼道が描かれていて、上原町から西代神社までは、旧国道170号線が天野からくる道だったようです。
 大日本早引細見絵図というのがありました。こちらも天野から富田林を経由するようになっていますが、富田林からは、東高野街道と宮町・平町を経由する巡礼道と思われる二本の道が書かれています。東高野街道も巡礼者が歩いていたのでしょう。

[第六番 壺阪山 南法華寺から第八番 豊山 長谷寺]
 壷阪寺の手前、壺阪川を渡る橋の手前で、左に行くのが旧道のようですが、県道に出る手前の道が藪化していたので、県道経由にしました。
 西国古道では、土佐からキトラ古墳の近くを通って岡寺に行くようになっていて、立派な平田の道標のあるところを通っていません。こちらを通って岡寺に行くようにしました。
 岡寺からは、西国古道が採用している少し近道になる山の中腹を行くルートと、下まで降りていくルートが考えられ、いずれにも道標が残っています。どちらも巡礼者が利用していたと思いますが、上図の中腹ルートは、通れないところがあるかもしれません。

[第八番 豊山 長谷寺から第十番 明星山 三室戸寺]
 西国古道では、山の辺の道を採用していますが、江戸時代の書物では、三輪を通っていくようになっているので、上街道を行くようにしました。いにしえの古道を目指すなら、山の辺の道を歩くのもよいかもしれません。
 また、木津から先、西国古道では、山背古道と重複する村々を通っていくルートとなっていて、また、奈良街道を歩いている人のネットの記録を見ても、こちらのルートを多くの人が歩かれています。グーグルマップに奈良街道と表示されているためと思われますが、グーグルマップの表示の根拠が不明です。
 一方、細見大全では、木津川を渡った後、堤を左へ行き、一里の間人家がなく、一里過て茶屋のある平尾村、また堤に出て玉水に行くことが書かれています。また、行程記でも、平尾、玉水を通るように案内し、平尾茶屋前という地名も残っていてます。伊能図でも、細見大全の案内のように、堤から一旦降りて、平尾茶屋前を通ってから再度堤に戻り、玉水の手前まで行っていたようになっていて、こちらが本来の奈良街道と思われ、ルートを加えました。この伊能図では、奈島村から中村寄りを通って長池町に行くようになっていますが、今昔マップの明治41年測量図には、この道の痕跡はなく、今は明治期にできたと思われる道を歩くしかないようです。
 天保の国絵図では鳥居を通るようになっています。綺田鳥居という地名が残っていました。天保のころは、平尾茶屋前の先で堤防にでるのではなく、綺田鳥居地蔵尊の前を通って玉水に行っていたのでしょうか。
 歩いてみて、平尾茶屋の方へ堤防から降りるところに道がありませんが、降りれないことはありませんでした。また、再度堤防に戻って行くと、渋川を渡るところに橋がありません。木津川の方に降りて渡れないことはありませんでしたが、草藪をかき分けていかなければなりませんでした。平尾茶屋前から堤防に出ず、綺田鳥居地蔵尊の前を通って玉水まで行く方がよいかと思います。

 城陽市「市史の窓」No.44No.45がありました。江戸時代の巡礼道ではなく、さらにいにしえの古道を目指すなら山背古道を歩くのもよいでしょう。
 大乗院寺社雑事記. 第8巻 尋尊大僧正記に、室町時代の奈良から京都に上る道が次頁の図とともに示され、参考にはなります。狛(上狛)林、椿井、平生(平尾)あたりは山背古道のようですが、その先、綺(綺田)、井出のあたりは山背古道より木津川寄りかもしれません。高(多賀)の先、十六宮(十六)の右を通り、菜嶋(奈島)を通っているようです。その先、夜叉ツカは、水度神社 一の鳥居あたり、クセノ宮(久世神社)、八幡伏外(御拝茶屋八幡宮)を通って、その先の赤坂で右に曲がるように図が示され、新田あたりのようです。神明を通って宇治に行くようになっているところからみても、奈島あたりからは江戸時代と同様の道筋だったと思われます。市民の窓の記事に、秀吉のころに、宇治栗子山越や久世鷺坂越の山道を通る必要がなくなったとあり、山州名跡誌の久世鷺坂の項にも、今の路は秀吉公の御時開く所なりとありますが、秀吉が太閤堤を造って、神明神社の前を通る宇治経由の道を通る必要がなくなったのですが、鷺坂はそれ以前から通る必要がなくなっていたようです。山州名跡誌の古の大和路に関する記載は、宇治からの道を秀吉の時に通る必要がなくなったことと、万葉の鷺坂を古の大和路が通っていたことを、混同したようです。

鷺坂の場所については、所説あるようです。別途久世の鷺坂にまとめてみました。

[第十八番 紫雲山 六角堂 頂法寺から第二十番 西山 善峯寺]
 向日町から、五辻を通り、善峯道を行くルートにしました。

[第二十番 西山 善峯寺から第二十二番 補陀洛山 総持寺]
 西国古道に、前にアップされていた地図では、寒谷から南つつじヶ丘桜台住宅地の南端を通っていくルートになっていたのですが、住宅地をかすめるところにゲートがあって、つつじヶ丘の住宅地を大きく迂回するように変更されたようです。ネットにある歩いた人の記録では、ゲートの横の平和池ダム跡地のモニュメントのところから入ったりして歩いている人もあるようで、前のルートとしていますが、入れないときは、つつじヶ丘の住宅地を通っていくしかないかもしれません。寒谷林道というそうで、2020年の記録12020年の記録22017年の途中から違う道を歩いた記録2015年の詳細がわかるサイトがありました。歴史的な道なのでゲートで遮らないでほしいものです。
 中山池をすぎて、国道478号を潜っていくと道標があり、道標に従って右の細道をいくのが巡礼道のようで、また、国道478号にぶつかりますが、地下道があり、走田神社のそばの道標のほうに行けるようです。
 細見大全では寒谷を通っていくようになっていますが、細見絵図、行程記では寒谷を通るのではなく中畑を通っていくようになっています。曽我部町寺上下垣内に「(正面)「右 そうぢし道」、(右面)「左 よしみね道」」とある道標があり、中畑経由の巡礼道は、中畑-田能-杉谷-小泉を通り、上下垣内に出ていたようです。田能、杉生にも道標が残っていますし、二つのコースの距離を享保12年に測量したとの話もあるようです。また、樫田トンネルの上を越える林道があるようですが、歩けるかわかりませんし、小泉から上下垣内までも、歩けるかどうか不明です。ルートを加えてありますが、歩くときは更なる調査が必要です。
 穴太寺から総持寺へ、細見大全では峠村から、貝原村小名つづらをり、鎌倉、 国境を通って、清阪村に行くようになています。今昔マップの明治44年の地図に、東掛、栢原、九折の地名があり、これに沿って鎌倉を通り狩待峠を越えて清阪集落に出るルートにしています。
 一方、清坂の集落と、旧清坂峠には、道標があり、鎌倉を通らないで、九折から東清坂を通り、旧清坂峠を越え、清坂集落への巡礼道もあったようです。東清坂から旧清坂峠への道も廃道となっているようですし、県道の清阪峠から道標の残る旧清坂峠まで行く道があるようですが、藪化しつつあるようです。
 忍頂寺の交差点から大岩の道標のある辻まで、キリシタン自然歩道というのがあり、西国古道でもこちらを採用していますが、大岩の道標には、「右 あなう」とあり、キリシタン自然歩道は採用しませんでした。

[第二十三番 応頂山 勝尾寺]
 細見大全では、鳥羽村、栗生村を通って勝尾寺に行くようになっていますが、勝尾寺川に沿って上る道の最後は廃道になっているようです。善福寺のところから西国古道のルートに移るルートを追加しました、また、細見大全では、箕面山経由の道も説明されていますが、勝尾寺から白鳥に下るのが本道となっていて、こちらもルートに加えました。

[第二十四番 紫雲山 中山寺から第二十五番 御嶽山 播州清水寺]
 名塩の先、平尻街道と呼ばれている道場平田まで抜ける道は、散策 山口の西国巡礼街道を見ると、あまり歩ける状態ではなかったようですが、平尻街道を歩くによると、徳風会が整備をし、2011年には歩ける状態だったようです。2024年3月には、大分荒れてきていて、歩きづらいところもありました。
 三田から広野まで、細見大全に合わせて、福島、加茂を通っていくようにしました。三本峠の先、細見大全では立杭を通るように案内されていて、東庄-下立杭-釜屋のルートと思われますが、伊能図では東条川沿いの道になっています。

[第二十六番 法華山 一乗寺から第二十七番 書寫山 圓教]
 姫路市佐良和の道標の先、興国包装の南の旧道は、コンクリート舗装となっていて歩いていけました。また、佐良和の道標(2)の先、とことこ巡礼記では、道なき道となっている花田中学校の手前のところは、宅地開発され歩きやすくなっていました。
 市川を渡った先、弘化四丁の道標のあるところを通るようにしましたが、明治に陸軍の駐屯地ができて、江戸期の巡礼道はほとんど残っていないようです。

[第二十七番 書寫山 圓教寺から第二十八番 成相山 成相寺]
 市川町の蓮泉寺のところで、地図では旧道がなくなっていますが、お寺の裏に道が続いています。建設会社の空き地に行き当たり、そこを通らせてもらって抜けることができましたが、他にルートがあるかもしれません。
 羽渕鋳鉄橋から新井までのルートで悩みましたが、新井付近の伊能図のルートを重ね合わせてみると、巡礼道は羽渕の集落を通らずに山口経由で新井に行っていたようです。山口の集落から新井の手前の橋までの道は、もっと川沿いにあったようですが失われているようです。新井の手前の橋は、国土地理院の地図では描かれていませんが、新しく橋が架けられていて渡れます。また、朝来市立中川小学校のところで、旧道がなくなっているようです。国土地理院の地図では、山側に点線の道があるのですが、歩ける状態ではありませんでした。
 和田山料金所の所は旧道は失われ、料金所の反対側を迂回しなければなりません。
 朝来市の広報に、「山口の護国神社辺りに「左さなか 右たんごなりあい」の道標があり」とありますが、確認できませんでしたし、他に紹介されている多くの道標もgoogleのストリートビューでは確認できませんでした。どこかに移設したようです。道標は、あった場所に意味があるもので、移設するならせめて説明板を現地に残してほしいものです。
 成相寺の手前の弓木村から国分村までは、伊能図にあり、参考になります。
 伊能図には、国分村より先の中野村から成相寺に登る道が描かれています。本坂道と呼ばれているそうで、荒廃しているのを2017年に整備が行われたそうです。地理院地図にもない道なので、私は歩きませんでしたが、整備されたのなら歩いてみたかったです。

[第二十八番 成相山 成相寺から第二十九番 青葉山 松尾寺]
 江戸の案内でも、森沢さんの本でも、由良を通っていくようになっているので、そのようににしました。森沢さんの本では、七曲八峠が点線になっているのですが、ネットに歩いた記録がちらほらあり、歩いてみましたが、最初に丹後鉄道の踏切のないところを渡らなければならないのと、その先の橋が朽ちて渡れなくなっていて、通行が相当に困難でした。また、途中もロープが張られていたり、ピンクのテープの目印があったりしましたが、普通の登山道とは大違いの、なかなか大変なコースです。七曲八峠を通らないルートも示してありますが、こちらを通るか、西国古道のルートの方が良いでしょう。
 中山から上福井に越える大船峠は、地理院地図では、道が描かれていますが、2013年の記録では、廃道となっているようです。また、このサイトには七曲八峠の記録もあり、最初の朽ちた橋のところで、私は線路の間を歩いて沢を越え、無理やり朽ちた橋の反対側に出たのですが、山側を迂回するルートがあるようです。
 舞鶴市のページに、京都舞鶴まち探検マップというサイトがあり、江戸期の絵図と現代の地図を比べて見ることができます。田辺城が街の真ん中にあり、多分城内を巡礼者は通れなかったのでしょうが、田辺城城下町エリア③⑤を参考に、城内を通るルートと通らないルートを示してあります。舞鶴鎮守府エリア⑤からは、東舞鶴駅付近の旧道は残っていないことが見て取れます。倉谷で若狭街道が紹介されていて、若狭街道は、伊佐津川の手前で土手を南下し、ニツ橋にでていたようです。
 宮津城も街道を遮っていますので、2つのルートを示しました。
 伊能図をみても、田辺(舞鶴)と宮津のいずれも、城内を避けて道が描かれています。
 市場を過ぎ、田中橋からのルートで悩みましたが、細見大全には、鹿原村、吉坂村を通るとあり、また、丹後郷土資料館調査だよりにある丹後廻り道中記では、川原村を通ったようにあるので、国道で鹿原・吉坂を通るようにしました。

[第二十九番 青葉山 松尾寺から第三十番 竹生島 宝厳寺]
 松尾寺からの古道に未整備とある古道コースは、荒廃しているそうで、ルートとしませんでした。
 小浜の手前の加斗トンネルのところで、伊能図では、海岸線から山越えで西勢に出ていたようですが道は失われているようです。
 寒風トンネルの旧道は、がけ崩れで通行が相当に困難で、トンネルを通るほうが良いと思います

[第三十番 竹生島 宝厳寺から第三十一番 姨綺耶山 長命寺]
 細見大全には、竹生島から長命寺に舟で行くことも説明されていて、交通機関を使って長命寺バス停に行ってスタートするのもありかと思いますが、細見大全には、長浜に出て、鳥居本から中山道を行き、観音寺、長命寺に行くことが説明され、今の船便は長浜にしか行けないので、そのようにしてもよいかと思います。
 細見大全には、観音寺から、石寺村に下る本坂と近道の薬師坂があること、近江八幡からは舟を利用すること、また、長命寺から谷汲へは、清水が鼻で中山道に出ることなどが説明されています。
 八幡からの船便はないようで、明治26年の地図でルートを定めています。

[第三十一番 姨綺耶山 長命寺から第三十三番 谷汲山 華厳寺]
 にゃおすけさんが谷汲道を詳細にアップされていて、赤坂から先は伊能図とともに参考にさせていただいています。小野坂峠の手前から越えるところの旧道は、なんとか歩けるようですが、無理をせず県道をあるいてもよいでしょう。

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