新編武蔵風土記稿の上目黒村のところに
「一は駒場道と云、相州道よりやゝ北の方にあり、」とあります。
明治になって駒場道と呼ばれるようになったのは、下図の青色の道ですが、これは豊多摩郡を通る道であり、上目黒村を通っていません。江戸時代に駒場道と呼ばれていたのは、明治になって滝坂道と名付けられた下図の赤色の道のようです。
また、新編武蔵風土記稿の上祖師ヶ谷村のところに
「村內に十町餘かゝれる一條の街道あり、甲州の裏道と云、」と、入間村のところに、「村內一條の往來あり、則甲州の街道なり」とあり駒場道の延長になります。
新修世田谷区史 上巻p.658のところの池尻村絵図に甲州道中出道とありますが、「裏」のくずし字を「中出」と誤読したようで、池尻村付近でも甲州の裏道と呼ばれていたようです。一般に滝坂道として知られる道と途中のルートが異なりますが、詳細については滝坂道にまとめましたのでご覧ください。