二子道

 新編武蔵風土記稿の下目黒村のところに 「村內東北より西南へ貫て相州道あり、」とあります。その先は、
 碑文谷村に、「村內三條の往還あり、其一條は丸子道と呼ぶ、北の方上中目黑村の界より南の方馬込村の方へ貫けり、一條は品川道と云、是は丸子道の岐路なり、村の中程法華寺の前にて分れ、それより北の方戶越下目黑二村の境に達す、通して丸子道とも呼り、一條は二子道と云、東の方下目黑村の界より、丸子道を横にたちて、西の方衾村に達す、」、
 衾村に、「村內北の方に通じて一條の大道あり、是相摸國大住郡大山、又は當國多磨郡八王子の邊に往來するの道にして、させる街道といふべきにもあらず、ことに屈曲多村の廣さは東西へ六町餘り、東の方碑文谷村より、南北三十町餘なり、西の方は等々力村に貫けり、」、
 野良田村に、「上野毛村より一條の往還あり、又二筋になり東西へ通し、村內を經こと凡十町許にして等々力村にて又一條となり、江戶への往還とす。」、
 上野毛村に、「村內に東西へ貫ける一條の往還あり、是高繩臺町へ出る西道なり、又古街道と云あり、村內南北へつゞきたるなたれの臺あり、其上を古への鎌倉海道と云傳ふ、」と、高輪から二子の渡しまで続いている道になりますが、
 等々力村に、「村內西によりし方に一條の街道あり、させる大路にはあらざれど、相模國大山又當國多磨郡八王子への街道なり、村民の傳る所は、古へ此道は鎌倉海道にて、今字を宿と云所は其時驛家ありし地といへり、此道は屈曲する所多くして、東衾村より乾の方下野毛村に貫けり、村內東西へ十三町、南北は半里にあまれり、」とあるように、分れて下野毛の渡しに向かう道もありました。

 迅速地図を参考に二子道の道筋を下図に示してあります。今の目黒通り(都道312号線)は下野毛に向かう道に大体沿っています。

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