新編武蔵風土記稿の東大森村のところに 「且東海道の往還かゝれるを以て、村も大抵にきはへり、其往還は南北につらぬき、蒲田村より不入斗村の境まで長十七町に餘れり、これも元和以前は今の道より東の方へなゝめにをれてありしとぞ、其跡こみちとなりて田間に存せり、今羽田辨天へ往來の人かよふによりて、土人は此を辨天道と呼へり、」とあります。
迅速地図を参考に玉川弁財天までの辨天道の道筋を下図に示してあります。江戸時代の羽田辨天は、弁天橋を渡った先だったようで、空港になっているようです。
この道を歩いてみましたが、羽田道、旧羽田道という標柱がありました。
大田区史 資料編 諸家文書 5p.207,208に、内川橋から分れる道に羽田道とあり、江戸時代には羽田道とも呼ばれていたようです。明治になって東京府は多くの道に名前を付けたようで、東京府荏原郡勢一覧にあるように、大森から羽田渡船場までの道を「大師道」と名付けたようですが、今では羽田道と呼ばれているようです。
それにしても旧羽田道というのはいただけません。産業道路が羽田道であれば納得できますが、新羽田道がないのに旧羽田道とはいかがなものでしょうか。