刑場がどこにあったか、調べてみました。
明治42年の「横浜開港側面史」にいろいろ参考になる話があります。
77ページに、「戸部官舎の寂しさ」として、次のように書かれています。
「戸部の官舎というのは今の巡査教習所の辺りでした。その時分の戸部は、まるつきり田舎で、淋しさといつたら譬えようもありません。
官舎(うち)の厠房(はばかり)の窓から覗きますと処刑場(おしおきば)の磔刑(はりつけ)だの生首だのが見えるくらいで、その刑場というのは、何でも今の税関官舎の上り口ででもありましたか、あるいは鞍止坂の上の方でしたか、その時分はあのへん一面に木ばかり茂っていましたから、はつきりと見分
けがつきません。ただもう、淋しいところであつたということだ けは確かに覚えております。」
87ページには、「厭がった関門」として、次のように書かれています。
「紅葉坂の上に奉行所があって野毛坂の上には見張所があり、其外所々に関門があったが、一番嫌われた関門は鞍止坂の関門でした。
鞍止坂は暗闇坂とも聞こえて名からして淋しさうですが、実際一番淋しい関門で場所が悪いから、誰あって行きたがる者はなかった、両側から大きな樹が被さり合って、全て木の枝で出来たトンネルのようでした。その上片方が首斬場、片方が処刑場だから堪ったものでない。」
326ページには、「戸部方面と戸部奉行所」として、「是より曲がりて牢屋敷(旧監獄)に七町あり。少し手前左の方に御仕置場あり。」とあります。
明治のころの地図がありました。
刑罰場が保土ヶ谷に向かって保土ヶ谷道の左にあったようで、側面史の「少し手前左の方に御仕置場あり」と一致します。
また、関門の位置が書かれた地図もありました。くらやみ坂を上りきったあたりにあったようです。
関門の「片方が首斬場、片方が処刑場」とすると、首斬場があったのはもくせい公園辺りでしょうか。
また、この地図には、すこし桜木町方面に行ったところの角に石碑が書かれています。平沼の久成寺に移されたという石碑と思われます。
戸部官舎があったという巡査教習所の位置が分かる地図もありました。今では東京国税局戸部宿舎になっているようです。この場所からは、西中学校やもくせい公園は見通せないようで、戸部官舎から見えたのは、処刑場とも考えられますが、処刑場とは別に、生首を晒した場所があったのかもしれません。
1973年の『ものがたり 西区の今昔』には、「西中に刑場があったというのは誤りです。坂の右側には牢や刑場はありません。きれいな山でした。あの山は私たち(ツネさんの実家才木家と海老塚家)の山でした。刑場は一番高い三角地の所にありました。当時もここだけはのぞくことができませんでした。今でもそこには家が建っていません」とあるそうです。国土地理院のHPで見ることのできる1966年の航空写真があります。
家が建っていない場所とはどこでしょうか。
明治13年に、太政官布告第36号というのが公布され、死刑は,絞首刑とされ、司法卿の命令により獄内で執行(第12条,第13条)され、15年から施行されたそうです。監獄の建物が分かる明治14年の地図もありました。
獄内にあった処刑場の場所がどこかは、この地図からは分かりませんが、露木事件の加害者である小島直次郎外七名などが獄内で処刑されたと思われます。
昭和4年(1929)の航空写真がありました。県の官舎が立ち並んでいる監獄跡地の一画に、官舎が建っていない場所があります。1944年の航空写真でも同様ですが、1946年の航空写真では並んで建てられた官舎とは異なる建物が建っています。上の1966年の航空写真では5階建てぐらいの建物が建っているようです。なんとなく気になります。
結局のところ、正確な位置は特定できておりません。